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発寒むかし話

発寒オロチ

大昔の人達が信仰する神様が住んでいたという山や川には、どう言う訳か不思議な話が多いのです。

私たちの町発寒もそうです。
私たち先祖がこの発寒の開拓を始めたのは、今から200年以上も昔の元禄時代の事。
その当時発寒は手稲山から流れる発寒川の清らかな流れの岸に広がる平野で、木や草がたくさん生えていて、とても豊かなところでした。
そして発寒川はアイヌ人や和人の人々の、とてもよいサケ・マスの漁場になっていて、大変活気がありました。
ところで、その発寒川の中程に、流れがせき止められてでき上がった、大きな沼がありました。それはちょうどヘビの頭に似た形であったそうで、昔の人々はいつの頃からかこの沼を「オロチ沼」とよぶようになったそうです。

昔の人々にとってヘビは守り神でありました。
ですから人々はお社を建てて毎日拝んでいたということです。
この沼の周りには木や草はもちろんの事、ケモノや鳥たちのとてもよい住みかでした。
中でもサクラ鳥がたくさんいて歌えさえずり、人々はとても楽しく暮らしていました。
お祭りになると「黄金の花咲く発寒は、とってもとっても良い所。黄金のオロチが住むそうな」
と、年寄りも若い人も女の人や子供たちも歌い踊り、それはそれは見事なものだったと言います。

ところが、今から200年ぐらい前の事、元文元年樽前山が大噴火を起こし、周りの様子は一変してしまいました。
発寒川の清らかな流れも、どす黒く渦を巻き流れも大きく変えて、昔の人が精魂を傾け血のにじむ思いで作り上げた田畑の上に覆いかぶさりました。

ところが不思議な事にオロチ沼だけは以前のままの姿であったと言います。

大噴火のために困り果てた人々は、オロチ沼に生える植物や果物を穫り、分け合いながら自然の厳しさに耐えていましたが、厚い厚い火山灰が降り続き、老人や子供たちは飢えとのどの渇きに苦しみながら、尊い命を失ってしまいました。
困った人々はオロチ沼のお社に立てこもり、三日三晩お祈りをしました。
その最後の夜の事、突然…(雷)…大音響とともに辺り一面が真昼のように明るくなり、オロチ沼の主である発寒オロチは一筋の稲妻に乗り、サクラ鳥と互いに戯れながら天に舞い登り、黒雲を呼び大雨を降らせて、火山灰を押し流して人々を救ってくれたそうです。

人々は以前にも増して豊かな、平和な発寒にするために、多くの苦労も乗り越えて、見事それに打ち勝ちました。

今、発寒は大きく発展しています。
昔の人々の血と涙と努力の結晶が、発寒の町を見事に発展させたのです。
これからも昔の人々の心を受け継ぎ、発寒の限りない発展と子供たちの健やかな成長を願い、誇りを持ってわが町わが故郷を語れる事を願いながら、今日も発寒オロチは子供たちと一緒に舞い踊っています。

※元禄(げんろく、旧字体では元祿)は、日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1703年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。

※元文(げんぶん)は、日本の元号の一つ。享保の後、寛保の前。1736年から1740年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。

※樽前山の噴火:江戸時代から明治時代には活発に活動しており1667年(寛文7年)、1739年(元文4年)、1804年(文化元年)、1874年(明治7年)、1909年(明治42年)に噴火を起こし軽石を周囲に降らせている。このため苫小牧市など周辺は至るところに軽石の散らばった火山灰の地層に覆われている。

長永橋のキツネ

発寒川にかかっている長永橋は、明治の終わりごろには、まだ幅のせまい小さな木の橋であった。
そのころになると、屯田兵の代からその子供の代にとかわってしまい、しだいに農地もひろがって、あっちにぽつん、こっちにぽつんとぶんさんしていた。となりに行くといっても、一番近い家でも十分も十五分も歩かなければならないというさびしさはあっても、のんびりと楽しい暮しであった。
そんなある春の日、又吉さんは一日がかりで札幌の町まで用たしに出かけた。帰りはふろしきいっぱいの荷物をしょったり、さげたりして、夕ぐれのせまってきた家路へといそいでいた。つつみの中にはミガキニシン、カレイ、チカ、しお、みそ、それに金平糖がはいっている。体格のいい又吉さんでもかなりのおもさであった。
でも橋が見えてきたら、すぐそばが家だし、かあさんや子供の喜ぶ顔を見るのが楽しみで、自然と急ぎ足になっていた。
やがて橋の中ごろまで渡ってくると、どうしたことか、急にからだの力がぬけてしまい、背中がぞくぞく寒くなってきた。
“こりゃあおかしいぞ”、歩こうとしても足がなかなか前に出なくなった。しかたなく荷物を橋の上におろして、汗をふきながら考えた。“おかしいぞ、たった今までなんでもなかったのに…”家の方を見るとなんだかぼんやりとかすんで見える。いくら目をこすって見ても、やっぱりよく見えないのである。
「よいしょ」と腹の底に力を入れて荷物を持ち上げるとまた歩き出した。いくら歩いても歩いても、目と鼻のさきにある我が家にもどれない。“待てよ”もしかしたらキツネにばかされているかもしれないと、油汗をふきながら又吉さんは考えた。いそいでふろしきづつみの中から、カレイ一枚とチカ五尾を橋の上に置くと、やっとの思いで家に帰って来たのである。
おかみさんは子供をおんぶして、あやしげな又吉さんのふるまいを、一部始終見ていたものだから、おかしいといって笑いころげるのである。
あくる朝又吉さんはいそいで橋にやって来た。橋の上にはたくさんのキツネの足跡が残っていて、魚は影も型もなくなっていた。やっぱりキツネのやつだったのか。とにかく、あんなことは生まれて始めてのできごとであった。
数日後、隣のだんなと道でばったりと出会った。だんなは大きな赤キツネを棒にくくりつけ背中にしょっていた。
「うーん。ワナさかかったんだ。このずるがしこい顔付きあんばいを見てくれや。ここらの主かも知れねえなあ。たたりあるべか……ヘエヘエ」
とだんなは上機嫌で鼻のあたまを手でこすった。又吉さんは数日後のできごとを話した。それにしても、わしがそんなに間抜に見えたんだべかと、キツネを見ていると、急に腹がたってきた。しかし助けてほしいという目付きで又吉さんを見ているキツネを見ていると、かわいそうな気がするのである。
春がすぎ、夏がすぎ、秋も終りになったころ、隣りのだんなはふさふさしたれいのキツネの襟巻をして、せっせとまたワナをしかけているのであった。

沢田けい子(北海道児童文学の会〜発寒在住)

Hassamu history

発寒の歴史

━━開拓の頃

  • IMG_0001.jpg西区は、左股川、琴似発寒川を境にした東側一帯の琴似町地域と西側一帯(発寒地区は 旧琴似町に含む)の旧手稲町地域からなっています。これらの地域には、和人の入地以前からアイヌ民族が生活を営み、独自の文化を築いていました。
  • 旧琴似町地域の中で、和人の居住が入地記録上早くから見受けられたのは発寒地区でした。安政四年に幕府旗本の武士20名とその従者が辺境の警備と開墾のために入地しましたが、一村を形成するには至りませんでした。

━━明治の頃

  • 明治4年に開拓使が現在の南四条通以南に近在の移住者を集めて作った辛未しんび村から44戸が同年、八軒、二十四軒地区などに移住し開拓に従事しました。しかし、本格的な開拓は屯田兵によるもので、明治7年の屯田兵例則の制定が開拓の発展に大きな影響を与えました。
  • 仙台亘理わたり藩(宮城県)・斗南となみ藩(青森県南部地方)・庄内藩(山形県)の士族たちが、明治9年に発寒地区(現在の稲荷線沿い)にそれぞれ入植し屯田兵村を形成しました。
  • その後、周辺地域の開拓も進み、発寒・八軒地区は牧畜。山の手地区は畑作へと地域の特性を生かした農業が行われるようになり、屯田兵による開拓は制度が廃止される明治37年まで続きました。

━━明治の頃その二

  • button2-c.jpg『在住』というのは、昔の中国の屯田制度にならって江戸幕府が考えたもので、北海道を外国から守りながら、開拓をすすめようという制度です。
  • 安政元年頃、ロシアの人がなんどもシベリアから北海道に来たり、オランダの船が北海道の周りを探検したりしていました。
  • そのために、幕府は北海道を守らなければならないと考えて、近藤重蔵・最上徳内・松浦武四郎らに、北海道を調べさせ、「在住」の場所を、釧路の白糠、苫小牧の勇払と石狩のアッサム(ハッサム)と決めました。
  • 白糠と勇払には、1800年(寛政12)八王子同志(武士)百名が入地しました。しかし、当時の北海道の気候や生活に合わず四年で本州へ帰ってしまいました。発寒には、1857年(安政4)に、今の稲荷通りの両側に建てた家(官舎)5軒に住みました。
  • 「在住」の人たちは、発寒に入地の前は、下級武士でした。その人たちは人夫として働かせるため、農民を一緒に連れてきて、農業をさせましたが、1866年(慶応2)で、この地に入地した人たちは本州へ帰ってしまいました。開拓された土地は、幕府の小手作場となり、新しく入地した人にあたえられました。
  • この「在住」の役宅(官舎)や農業の仕方や生活の仕方が参考にされ、屯田制度のさきがけとなりました。そして、1874年(明治8)琴似に屯田兵198名が入地し、明治9年5月21日、私たちのまち発寒に屯田兵32戸が入りました。山岡精次郎らが1857年に「在住」として発寒に移住してから、20年が経っていました。
  • (発寒小学校資料室の説明から)

━━昭和の頃

  • IMG_3641.JPG昭和30年に琴似町が、42年には手稲町が、それぞれ札幌市と合併。その後の人口増加に伴い、農地は次第に住宅地と化し、街は大きく様変わりしました。
  • 昭和51年には地下鉄東西線が開通し、これを契機により一層の人口流入が続き、昭和48年に西陵中学校、50年には発寒東小が開校、西陵橋、西陵公園が完成するなど、発寒の街づくりが進められました。

━━平成から現在

  • 平成元年11月6日、西区を分区して手稲区と新しい西区が誕生。
  • 平成6年には、はっさむ地区センター、発寒流雪溝が完成。同時にカラー舗装、おしゃれな水銀灯へ切り替えられ、並木も銀杏が植えられ、稲荷街道は『ぎんなん通り』という愛称で親しまれるようになりました。
  • 平成11年2月25日、地下鉄東西線延長部(琴似~宮の沢間)が開通しました。

資料、写真協力:発寒小学校、発寒東小学校