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はっさむ/発寒郷土資料

発寒小学校郷土史研究会/昭和33年3月1日発行より

発刊のことば
hassamur.jpghassamu.jpg柏とはんの木と熊笹の茂つた原始林の中で、ひぐまが咆嗜し、幾千羽の桜鳥が群がり遊んでいたハチヤブの地は、秋ともなれば発寒川をさかのぼる鮭の大群にアイヌの人々を喜こばせました。
安政四年山岡精次郎氏等数名が、はじめて開拓の第一歩をふみだし、後に屯田兵として発足したから百年、今では立派な農業のまちに育ち、それが大札幌市への合併とともに校外の閑静な住宅地に変り、昨今では工業地帯への移行が強く予想されるようになりました。今年になつてからは待望のバスや電話が開通しました。思えば随分発達したものではありませんか。
私達は思うのです。『こうして一生懸命血のにじむ思いで村づくりに日夜心くだかれた昔の人々の業蹟を知ることによつて郷土愛は高められ、新しい郷土をつくり、社会を構成するよい市民となるのではないかと。』昭和三十一年来御父兄の協力を得て発寒の郷土誌をつくることにいささか骨折つて来ましたのもそのためです。いざやつてみますと大変暇取つてしまいました。研究の中心となつておられた武内真春先生が病にたおれられたのには一番困りました。然し郷土誌家の更科源蔵氏に研究の手ほどきを受け、何かと御助言し、励ましてくださつたことは何よりも心強い限りでした。深く感謝したいと思います。又校地の歴史をよく知つておられた山内鉄男前校長先生が札苗校へ転任された後も原稿を届けて戴き本誌編纂につくされたことは全く感謝に堪えません。
私達はこの発寒郷土誌ができあがり心から喜びほつと安心しました。つたない私達の研究が児童の学習の参考に、又父兄の皆様方に少しでもお役に立てば幸と思います。

※当時の原文そのままをテキストにしています。

グラビアページ

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本文

一、歴史の概要

1、昔の発寒附近のようす

私達の町には、いつ頃から人が住むようになつたのでしようか。もちろんはつきりはわかりませんが、早くからアイヌが住んでいて、その住んでいた跡が琴似町のあちらこちらから、たくさん発見されています。
この跡を遺跡といいますが、北海道にはたくさんの遺跡が発見されています。
私達の札幌市や琴似町の近くからも発見され、殊に発寒川、琴似川及びその支流附近の小高い所に多く、今まで二十六箇所も発見されています。
今の発寒神社の所からもストンサークルという遺跡が発見されましたが、神社が今の所に移つたため、すつかり姿を消してしまつたのはほんとうに残念だと思います。その遺跡は現在北大に保存されています。

2、遺跡の種類・場所

琴似町で発見された遺跡の種類には、次のようなのがあります。
1、チヤシ(砦 )  2、竪穴住居
3、ストンサークル  4、鉄器時代墳墓
5、遺物包含地  などです。
遺跡のうち、古い年代のもの程山の手、発寒、円山などの高い地帯にあつて、反対に新しい年代の遺跡は低地にあることは琴似や発寒附近の土地の変り方と関係があるのではないかと思います。

琴似町内で発見された遺跡の場所は次に書いてあるような所です。
1、新川字東牧場(高橋三蔵氏所有地)
2、新川字東牧場(熊野政吉氏所有地)
3、東発寒(粂野正行氏所有地)
4、東発寒(発寒神社)<ストンサークル>
5、東発寒(下山氏、小屋敷氏所有地)
6、西発寒(小川繁治、小川豊治、坪山哲夫、大崎正一、村上秀之助、三谷己一、三谷誠一、佐藤喜助氏の農地)
そのほか、十二箇所もありますが、全部で二十六箇所も発見されています。

3、発寒アイヌと和人

発寒に住んでいたアイヌは、石狩川の支流や、発寒川などでとれる鮭や、附近の山で熊などをとることを主にしていたことはわかりますが、アイヌ達はその時期によつて他の場所へ写つていつたり、来たりしていたことも考えられます。
石狩川はたくさんの鮭がとれるので、遠くは宗谷方面のアイヌまでもはたらきに来ていたのです。
あとでのべることにしますが、和人とアイヌとの争い「コシヤマインの乱」には、石狩附近のアイヌは参加しなかつたらしく、それだけに石狩附近に住んでいたアイヌたちは平和を愛し、生活も豊かでその反面しつかりした考えを持つていたのではないかと思います。
このコシヤマインの乱のあと、松前藩では石狩のアイヌにも和ぼくに来いといつて来た時、松前藩の命令をはねつけた程、しつかりしていたのです。松前藩もこれには手を出せなかつたそうです。石狩十三場所の一つの発寒場所の中心と考えられる発寒には、寛政年間(今から百五、六十年位前)にはアイヌの家が十三戸、人数にして五十六人住んでいたらしく、十三場所の中でもたくさん住んでいた方のようです。
実際はどのあたりに住んでいたのかというと、発寒川鉄橋川下の右岸に十三戸の部落があつて、鮭のとれる頃には、発寒川の川口に小屋を作つて鮭をとつていたのです。
まもなく、今の恵庭の方の川に住んでいたアイヌが三戸九人発寒へ移つて来ています。
その後文化六年(今から百五十年程前)には疱瘡(ホウソウ)という病気が流行して、たくさんのアイヌが死にましたが、発寒アイヌの中にも死んだ人がいたのかも知れませんが、はつきりした記録が残つていないのでわからないようです。
この頃、発寒アイヌはどんな生活をしていたかというと、松前藩もアイヌを大切にするようになり、アイヌにも笠やワラジをはくことを許し、日本語を使うことをすすめたり、仏教をひろめたりして一生けんめいでした。
しかし、アイヌがむかしから持つていた服装、たとえば入墨をしたり、耳輪をつけたり、熊まつりをしたりすることをやめさせようとしましたが、これはなかなかやめることができなかつたようです。やはりアイヌはアイヌ人の風俗というものを誇りをもつていたと考えられますが、自分たちの風俗に誇りを持つことは、大変えらいと思います。
松前藩が治めた頃はアイヌ達は思うように漁をする事ができなかつたのですが、安政二年(今から百年程前)に幕府がエゾ島を治めるようになつてからは、幕府はアイヌを大切にして、自由に漁が出来るような場所をきめたので、久し振りにアイヌたちは元気をとりもどして漁に精出しました。そのため、和人の漁場には石狩アイヌがほとんどいなくなつたので、和人はほかのアイヌをたくさん頼んで漁をしました。
一時、石狩にはエゾ島の各地からアイヌが出かせぎに集まつていました。待遇も大変よくなつてきたのです。
幕府では一生けんめいアイヌを大切にしようとしていましたが、漁場の請負人はアイヌを困らせていた事が多かつたのです。
コシヤマインの乱の頃までは、発寒アイヌは平和に暮し、生活も豊かであつたのに、松前藩の手が入り、幕府の手が入つたりしてだんだんと苦しくなつてきたのです。

今までのべてきたように、私達の町にはむかしエゾとよばれたアイヌ人がたくさん住んでいて、その跡がいろいろ発見されました。
この遺跡の中から出たもの(出土品といいます)をもとにして調べた人たちは、今から二千年位前にエゾとよばれる人たちが、北海道に住み始めたのではないか、といつています。
そのうちに、本州の方から和人が北海道に渡つてきて住むようになつたのです。
この人たちは、はじめ函館の近くにだけ住んでいました。この頃は北海道を「エゾ地」とよび、津軽の豪族安東氏がおさめていました。でも、この「エゾ島」は最初、幕府の人たちが強盗や海賊など悪い人たちを流した島だつたのです。
古い記録に、鎌倉時代の西暦一二一六年に、「鎌倉幕府強盗、海賊の徒五十余人を蝦夷島(エゾ島)に流す」又一二三五年に「夜盗、強盗等を蝦夷島に流すことを令す」
という記録が残つているのです。
安東氏が代官としてエゾ地を治めましたが、和人とアイヌ人とはよくけんかをしました。
次にのべるような争いは、その中でも一番大きな争いの一つであつたのです。

4、コシヤマインの乱と松前藩

ことばも生活の仕方も違うアイヌ人たちとは、その頃あまりうまくいかなかつたようです。
丁度そんき時に、函館の近くの志苔(シノリ)という所に住んでいた鍛冶屋(かじや)がアイヌにたのまれてマキリ(小刀)を作りましたが、そのマキリが切れる、切れないと二人がけんかをはじめて、とうとう鍛冶屋はそのアイヌを殺してしまつたのです。
これが原因となつて、今までアイヌ人は和人を気持ち良く思つていなかつたので和人を追いはらう相談をはじめました。
そのため、東は日高、胆振あたりから西は余市あたりまでのアイヌがさわぎ、和人が殺されたり、また東の部落のアイヌが酋長のコシヤマインにひきいられて南の方の志苔、箱館(今の函館)、茂別の館(たて)に向つて攻めて来ました。
この時、武田信広は勇敢にコシヤマインをたおしたので負けそうだつた和人は、あぶないところで勝つたのです。

この乱で手柄のあつた武田信広は、蛎崎(かきざき)氏の養子になり、和人たちに尊敬され、その子孫は「松前氏」を名のつて、長くエゾ地を治めるようになつたのです。
松前藩はだんだんとアイヌ人と仲よくしていくようになり、交易のやり方をきめて酒、米、刀などと、毛皮、鮭、にしんなどととりかえました。
このようにして、本州との間の物の交換がさかんになり、松前氏五世慶広(よしひろ)は今の松前町に城を築きました。当時は福山城といいましたが、今は松前城とよんでいます。城を築いたのは慶長十一年(今から三百五十年位前)です。
松前では米がとれませんでしたので、藩で使うお金をとるために、エゾを交易したものを本州の商人に売つたりしました。
又松前藩では年貢米が入らないので、自分の藩の家来を養うお米を渡すことが出来なかつたので、その代りにエゾ地をいくつかの場所に分けて、そこのアイヌと物を交易する権利をあたえました。しかし武士は商売が下手なので、しまいには武士はアイヌと交易する権利を商人にゆずり、その代りに税金をとつたり、場所の権利を賃貸したりするようになり、商人はだんだんとエゾ地の奥地まで入るようになりました。
この商人たちはただ金をもうける事だけしか考えていなかつたので、数の数え方も知らないアイヌ人たちを苦しめるようになりました。

5、発寒場所と発寒在住

このように物と物との交易がさかんになり、石狩川の近くで鮭、ますのたくさんとれた札幌地方は、早くから交易する場所がひらかれたと思うのです。
石狩川筋に、「石狩十三場所」というアイヌと松前藩との交易場所がありましたが、その一つに「発寒場所」というのがあつたのです。
この「発寒場所」の責任者は、酒井権佐衛門という人だつたのです。
「発寒場所」の範囲は発寒川の沿岸全部で、アイヌは発寒川でたくさんの鮭、ますをとつたり、熊をとつたりして本州のものと交易していたのです。その頃、アイヌ人は丸木舟にのつて川を渡つていたのです。

幕府がエゾ島を大切な土地だと考えたのは、いろいろの人たちの調査などによつてわかつてきました。それで北海道を開拓するために本州から人を移住させてきましたが、これは後の「屯田兵制度」のさきがけをなすものでした。
第一回目は寛政十二年(今から一六◯年程前)東京の八王寺から、「八王寺同心」百名を、釧路の白糠と勇払の二ヶ所に移住させました。
第二回目は発寒に移住させたのです。発寒に移住したのは安政四年(今から百年前)で、どうして発寒に人を在住させたのかというと、近藤重蔵や、最上徳内、松浦武四郎という人たちが、石狩川の附近は北海道(この頃はまだエゾ島)を治めるためには、大切な土地であるという事を幕府に報告していたからです。
その外、ロシヤなど外国の船が北海道の近くに盛にやつて来たので、北方を守らねばならないと幕府の役人は考えて、石狩川筋の発寒に在住させたのです。
発寒に在住する前には、交易をするために、いくらかの和人がすんでいたらしいのですが、正式に在住したのはこの時がはじめてのようでした。
そして、幕府の役人も安政三年と四年には石狩にとどまつて、札幌の近くをみてまわり、大体この近くに在住をおくと考え、また銭函から札幌を経て千才へ出るための「札幌越え」の道路も開こうと計画していたのです。
在住の場所を決める役人も、大体予定地として「サツポロ、ハツサフ山の附近がよい」というように、役人の書いた日記にも残つているのです。
サツポロ山というのは、今の藻岩山のことをさしていつたらしく、ハツサフ山というのは、今の手稲山か、三角山をさしてそういつたのではないかと考えられます。
このようにして、安政四年二月二十七日に石狩に最初の在住として入り、発寒には四月十四日頃山岡精次郎を中心とした在住の人たちが入地したのです。
現在、発寒神社の所に建つている山岡精次郎の記念碑は、この人たちの入地を記念して後になつて建てられたのです。
この時、発寒に入地した人たちの名前をあげてみますと、
 ◯山岡精次郎
 ◯酒井和三郎
 ◯市川栗八
 ◯弓気多源丞
 ◯鈴木顕輔
 ◯永田休蔵
 ◯軽部伝一郎
 ◯軽部豊三郎
 ◯安藤武佐衛門
 ◯大竹鎮十郎
 ◯秋場熊蔵
 ◯秋山繁太郎
 ◯秋山鉄三郎
 ◯武光文弥
 ◯長坂与一郎
 ◯鈴木熊吉
 ◯轟清吉
 ◯笹原源吉
 ◯青木力蔵
という人たちでした。
この中の「永田休蔵」という人は、特に開拓は熱心で、十一人の農民を連れて渡つて来た人でしたが、発寒に入地した安政四年十一月三十日に同じく発寒に入地した大竹鎮十郎と二人で石狩からの帰り、途中の海岸で強い波風のため、冬の海にさらわれて死んでしまいました。
発寒小学校の前庭の端(元発寒神社境内)に建てられている「永田休蔵の碑」は、大正十四年に建てられたもので、この碑を建てるために力を入れられた人たち−寺田千太郎、下山勝美、南部林次郎、荒屋敷初次郎など発寒屯田兵十四名の名が記されています。
私たちはこの土地を開くために努力した山岡精次郎、永田休蔵をはじめ、発寒に屯田兵として入つた人たちの労苦を忘れてはいけないと思います。
現在発寒小学校の前庭の端、永田休蔵の碑の近くに建つている「発寒開拓記念碑」は、末ながく開拓の労苦を忘れないようにと建てられたものです。

6、石狩平野ではじめての米作

石狩平野ではじめて米をつくつたのは、早山清太郎という人です。
この人は北海道に渡つて来ていろいろなことをしながら、手稲村星置の沢で木材を伐る仕事をしたり、また三角山附近では発寒在住の人の家をたてる材料を伐つて、それを発寒川に流して運んだりしていましたが、農作物の話からこの土地でも米がとれると考え、幕府の役人も力を入れ、琴似の十二軒川の近くで水田を作つたところ見事に米が出来たのです。
早山清太郎は大変喜んで箱館奉行にお米をさし出したところ、大変ほめられてほうびをもらつた程でした。
明始になつて、石狩平野で最初の「米つくりの父」といわれた広島村の中山久造も、この早山清太郎が琴似の十二軒川の近くで米をつくつたからこそ、中山久造も水田をつくつたのだろうと思います。
このようにして、みんなが一生懸命になつている頃、北海道のようすはだんだんさわがしくなつて来ました。
一八五三年にアメリカからペリーが四せきの軍艦をひきいて日本にきました。次の年もまた来たので、箱館の港でアメリカと物を買つたり、売つたりしてよいといつたので、すぐに軍艦が箱館に来たりして、松前藩では大さわぎをしました。

7、屯田兵と発寒兵村

ペリーが来たり、ロシヤがカラフトをおどかしたりして大さわぎをしている中に、幕府のやり方に反対する人たちが、幕府の政治をやめて天皇に治めてもらいたいと考えました。
このため、箱館で戦いをしたりしてとうとう新しい政治をすることになつたのです。
それは明治元年(一八六六年)のことです。新しくできた政府はエゾ島を一生懸命に開いてしつかり守らねばならないと考えて、明治二年七月に開拓所をおきました。
明治三年には黒田清隆が開拓使次官なつて、熱心に開拓のことを考えました。そして、
明治二年にエゾ島を「北海道」とよぶように名前が変りました。

北海道に屯田兵の制度が出来たのは明治七年の十月ですが、ふだんは土地を開き、また外国から攻めて来たり、国の中で争いが起きたときには鉄ぽうをもつて戦うのです。
屯田兵が入る前には移民といつて、やはりたくさんの人たちが本州から入つて来て北海道の開拓にとりかかつていました。
明治八年五月に琴似に一九八戸(九六五人)が入りました。北海道に入つた屯田兵の一ばんはじめです。
明治九年五月には札幌の山鼻に二四◯戸、そして発寒に三十二戸の屯田が入つたのです。
山岡精次郎が、安政四年に在住として発寒に入つてから二十年たつてからのことです。
永田休蔵の碑文には、明治九年五月二十一日に三十二戸入り、すぐあとで二戸入つたと記されていますが、発寒屯田としては三十四戸が開拓に力を入れた事になります。この碑を建てた大正十四年で、屯田兵として移住してから、五十年たつたというように記されていますから、今年で発寒屯田が入地してから大体八十年以上たつことになります。
屯田兵の家族たちも、畑をつくりながら蚕をかつたり、くだものの木を植えたり、また畑のものがとれない時でも困らないように、政府からもらうお米の二割をためたということです。
明治十年に九州におきた「西南の役」には、屯田兵がたくさん戦にいきました。
発寒屯田の入地をする前の年には札幌には「札幌農学校」ができて北海道の教育にも力をいれました。有名なクラーク博士がアメリカから来て学生を教え、明治十年四月にかえりましたが、その時の「青年よ大志を抱け」のことばは、日本中誰でも知つています。
この発寒に、「発寒屯田」として入地した三十二戸は、次のような人たちでした。

 佐々木 石五郎(岩手県)
 小 林 八十七(岩手県)
 戸 石 忠次郎(仙 台)
 南 部 毬次郎(岩手県)
 若 生 良 規(仙 台)
 岡部 忠右衛門(宮城県)
 新 藤 岩次郎(岩手県)
 野 村 雄 弥(宮城県)
 四 戸 徳 治(岩手県)
 昆   喜代治(岩手県)
 小屋敷 新 吾(岩手県)
 岡 部 忠 吉(宮城県)
 吉 田 春 治(岩手県)
 太 田 佐 六(岩手県)
 横 尾 貫一郎(仙 台)
 富 田 栄太郎(宮城県)
 四 戸 麟五郎(岩手県)
 伊 藤 蔵 司(岩手県)
 沼 口 市太郎(岩手県)
 下 山 清次郎(岩手県)
 山 口 忠 蔵(岩手県)
 高 橋 辰三郎(仙 台)
 安 住 金太郎(宮城県)
 小 野 新 吉(宮城県)
 村 田 政 吉(岩手県)
 中 崎 源五郎(岩手県)
 大 房 長十郎(宮城県)
 下 村 清太郎(岩手県)
 寺 田 長 六(岩手県)
 庄 司 新 六(宮城県)
 阿 部 重次郎(岩手県)
 曽 慶 利喜治(宮城県)

以上の人たちでしたが、岩手県から十九戸、宮城県から十三戸入地した訳です。この人たちは入地して一週間の間発寒在住で入地していた斉藤九佐衛門氏の世話になつたのです。

◯屯田兵村
屯田兵の入る家や土地は大体一ヶ所にかたまつてあつたようで、これを兵村といつています。
近藤重蔵や松浦武四郎等が調べた時も、今の札幌の近くにエゾ島の中心となる場所をきめるのがよいといつていましたので琴似、発寒に屯田を入地させたことは当然な事であつたわけです。
さて、この兵村にはどんなようにつくられたかというと、琴似屯田の兵村は真中に十間の幅の道路をつくつて、西側に平行に道路をつくり、これと交わるように東西に道路をつくつて、その道路をはさんで家を建てたわけです。
琴似屯田の家は、あまり集まりすぎたため、それが原因となつて琴似町が今のように道路がせまくて困つている原因をつくつてしまつた訳です。
琴似屯田の兵村のつくり方が失敗したので、発寒屯田の兵村をつくるときは、ケプロンの意見をきいて、少し広くこしらえたのですが、家は道路ぎわ六尺のところへ建つたので、具合が悪かつたのではなかつたかと思います。
家は最初は防災のことを考えて、壁天井は白土壁にするとか、また軟石を積んで建てるというように設計されたのですが、結局さいごに出来上がつた兵屋は、屋根裏のみえるような粗末な家だつたのです。
この時政府が無理をして石を積んだ丈夫な家を建てたら、どんなにか屯田兵の人たちは楽をしたことでしょう。発寒屯田の入つた家は、一戸分が二百七円七十銭でできたのです。その頃の米は一俵五円か六円でした。つまり、発寒屯田の兵村に建てられた家は三十二戸分で六千六百円あまりかかつた事になります。
屯田兵の服装は、今からみると一寸変つた感じがします。
和服に白の兵子帯をし、それに袴をつけて腰に太刀をさしていました。開拓に入つた当時はそのままの服装で教練もしたり、また開拓にも従事しましたが、後になつて軍服などが制定され、特に防寒については注意をはらつてつくられました。

8、発寒の村作り

琴似や発寒に屯田兵が入つて開拓に力を入れる一方、明治二十年には新琴似にも屯田兵が入地したのです。
琴似や発寒がどしどし発展していくと同時に、北海道はものすごいいきおいで開けていきました。農業はどんどんよいものがつくり出され、又工業も札幌にはたくさんの工場が出来ました。たいてい官営工場で開拓や日常使うものをつくりはじめたのです。
ビール工場も明治九年に出来ました。発寒屯田の人たちも時にはきつとこのビールをのんではたらいたことでしょう。
アメリカからは、ケプロンという人を招いていろいろ指導してもらつたり、国でも一生懸命でした。道路は一番大切であると考えて道路をつくることは特に力を入れました。
その中に鉄道がつきました。明治十三年には、札幌と手宮の間、
明治十五年には幌内と手宮の間を汽車が走つたのです。
それと共に、まちも立派になつていきました。明治二年に札幌の町をつくるために島判官が来て明治五年には町をごばんの目のように区切つて道路をつくつたのです。島判官が苦労しているときに判官が代りました。
次の岩村判官がきて島判官の後の仕事をしました。本格的に札幌の建設にのり出したのは明治四年十一月、明治五年五月には開拓本庁が店開きをし、六月には正式に本道の首都となつたのです。
岩村判官は家を建てたい人に百両のお金を貸したのですが、借りた人は草ぶき小屋を建てて、あとの金は使つてしまうので、おこつた判官は草ぶきの家には火をつけて焼き払つたということです。そうしてよい家を建てるために力をいれました。
一時本道を去つた岩村判官は、後になつて三県(札幌県、函館県、根室県)が廃止され、北海道庁が札幌に置かれるや、その初代長官に任命されたのです。今の道庁庁舎も岩村長官の時に建てたものです。
屯田兵の入植する前に、山岡精次郎などが在住として移つて来た頃は主に「ソバ」「アワ」「大豆」「麦」などをつくつていたようです。琴似の方は馬鈴薯も相当につくつていたらしく、その頃の記録が残つています。
屯田兵がつくる大麦はビールの原料になつたのです。札幌附近には三十位の工場ができましたが開拓に使う物とか、また屯田兵の畑で出来た農作物を本州にまで運搬しなくても、北海道で加工するために工場がつくられたのです。
明治九年にはビール工場が出来たのですが、ビール一本が十二銭五厘で工場から商人に売られたというから、屯田兵たちが買うのは十四銭か十五銭kぐらいだつたのでしょう。
屯田兵が発寒に入地して十年たつた明治十七年には、発寒にはどの位の農作物ができたかというと、大体次ぎにのべるような、状態のようでした。
即ちー
大麦ー三十五石。ソバー二十三石九。
粟(アワ)ー四十一石五。大豆ー百七十九石七。小豆ー三十一石六。キビー三百二石六。麻ー七百二十三貫。蚕のまゆー百十五貫三十七匁。この外イモ、トウモロコシ、大根、野菜、果物、又ニワトリも相当に飼つていたようです。
果樹などは明治九年に発寒には梨四百四本。リンゴ百五十二本。桃五十一本。李二十五本。杏二十五本。桜桃二十五本が植えられ、また続いて梨三百本、ほかの果樹それぞれ二十五本ずつ配られ三千五百本位植えられたのです。
しかしこれはあまり成功しなかつたようです。

明治二年に島判官が札幌の町をつくるために来た時には、札幌よりも発寒の方が小さな村をつくつていたのです。五戸の在住、数戸の農民や炭焼き、それに発寒アイヌの家が七戸と二十軒位の家があつたわけですから、札幌よりも発寒の方が早く開けたのです。
開拓使では、人口の集まつている所は五軒を一組としてその組が五組あると、そこに村長(むらおさ)をおきました。明治四年に札幌の山鼻から四十四戸琴似に移つて来たので、琴似組頭と百姓代という責任者が開拓使から任命されました。
明治五年頃には、戸長、副戸長という村の役人ができました。副戸長は部落毎におかれたようで発寒にも副戸長がおかれたのですが、発寒村の最初の副区長は誰であつたかははつきりしません。
とにかく発寒村は明治五年までは手稲村をも含めた広い地域で、明治四年には戸数四十七戸でしたが、広いため明治五年二月十六日付で、「発寒村」と「手稲村」とに分かれたのです。
明治十三年に村の区制や制度が変り、琴似、発寒、上手稲、下手稲の四村が一つの区画になつて一人の戸長がおかれることになつたのです。
菅野格という人が琴似初代の戸長になりましたが、明治十五年にはまた変つて、琴似村と発寒村とを兼ねて戸長一人がおかれました。太田三十郎という人が二代目の戸長になつたのです。
丁度、北海道では札幌県、函館県、根室県の三つの県に分かれた時代です。
三代目が二瓶庄太郎氏でしたが、明治十九年に三県分治から北海道庁になつたので、二瓶戸長がやめ、四代目に佐藤只雄氏がなりました。
このようにいろいろ変つて佐藤戸長の後に、安孫子倫彦戸長、菅野利行戸長、新田康次郎戸長、吉原兵次郎戸長と変りました。
明治三十九年、篠路村の篠路兵村全部を琴似に入れて、二級町村になりました。
初代村長は鈴木寅吉氏です。この人は僅か一年五ヶ月村長をやつただけでしたが、学校を大きくするためや、そのほか村のために一生けんめいにつくしました。
二代目の村長は下川重(■※)氏です。明治四十年から大正三年まで七年六ヶ月間村長をしました。
この人は札幌区政実施の時に、琴似本町と札幌との境界を琴似川とした結果、新琴似の一部五十万坪が札幌区に編入されてあつたので、これを返してもらうように運動しました。これは吉原戸長時代から道庁長官に申請していましたが、明治四十三年四月に琴似本町にもどりました。
三代目は宮崎建三郎氏で大正三年から大正六年四月まで村長をしました。この時は役場をどこに建てるかで三兵村(琴似、新琴似、篠路)の間でもめました。このため宮崎村長は永山村に去つていき、四代目に清水涼氏が村長になりました。
大正十一年に北大農場の裏にあつた農試を琴似に移し、また工試を新しく建てることができました。
そして大正十二年に一級町村になり、昭和十八年二月十一日町制がしかれたのです。初代町長に清水村長がそのまま町長となり、二代目町長に安孫子孝次氏、三代目に斎藤正志氏、四代目に河本浦助氏、五代目に曽我初観氏がなり、昭和三十年三月一日に札幌市へ合併されました。
琴似役場は、札幌市琴似支所となり、初代の琴似支所長に牧清五郎氏がなり、現在は中道慶吉氏が三代目の支所長になつています。
二代目は土井清次氏でした。
(※上が臣、下が山)