二、地勢展望

1、地域の姿・位置・地形


石狩の大扇状地に含まれる所の発寒は、どんな生いたちであつたのでしょう。
古い時代には低地の大部分が海か沼、又は湿地で、人類の居住には適しない様な状態にありました。
その後長い期間に低湿地は河川の洪水によつて運ばれる土砂によつて、次第に埋められて陸地となり、人類の居住に適する地域が低地へと進出したのでしょう。従来発見されている遺跡によつて発寒の土地の年令は四・五千年と想定されています。しかし、今後それよりも古い時代の遺跡の発見により、年代が多くなることも想像できるでしよう。
札幌市の一部分に含まれている発寒は、市の中心から見ますと、丁度北西の方向にあたります。この発寒の近所には、同じ札幌市で、新川と琴似といわれている所があります。
地形は南方より北方に向つて菱形をなし、南北六、三粁、せまい所で一、九粁、広い所で二、七五粁であります。南部は遠くに手稲の山々を望み、北部は平地をなし、海抜約三五米内外にあります。

2、発寒川


発寒川の沖積土地帯は、砂岩、安山岩を主材とし、乾燥地帯は腐植の含有が少く、植壌土、壌土で、下層土は砂壌土を來在する箇所が多く、湿地帯に於いては腐植の蓄積や、還元物お含有しています。下層土埴土型、一部に砂壌土、泥炭を來在する所があつて、排水が悪い、発寒川の支流域の母材は前同様でありますが、気候的に山間性となり利用上差異があると認められています。
発寒の名が資料の上に出て来るのは、寛文の蝦夷乱後、津軽藩士、「牧只衛門」が、蝦夷地の富源を調べるため、隠密として、石狩川を探つたものの中に
『石狩口より壱里程登り候てはつしやぶより二里程登り候てさつほろと申所に有。』
とあつて、発寒川の川口をはつしやぶという地名で呼んでいます。なおさつほろは、現在の札幌ではなく、今の篠路をさしたもので、もと豊平川はサツポロベツといつて、洪水のため現在の豊平川の方へ切れてしまつた為、もとのサツポロベツをフシコサツポロベツといつたが、その落口を当時さつほろの名でよんでいたものであります。
・石狩山伐木と発寒山の造材
村山家の記録によると、札幌附近で当時木材を伐出した山はサツポロ山(現在の藻岩か)とハツシヤフ山ということになつています。このハツシヤフ山というのは、石狩の「元小家から川通二日。」の場所にあるということになつていて、現在のどの山か、はつきりしたことはわからないのですが、色々資料を綜合してみますと、どうやら現在の手稲山を指していたようでもありますが、実際に木材を伐り出したのはこの山と限つたわけではなく、この附近の山の木を伐つて、冬の間に橇で発寒川まで運び出して、春の雪解水を利用して石狩川まで流送し、それを石狩の木場に積み上げて置いて船積にして送つたのであります。発寒山から伐り出したのは蝦夷松ではなくて、椴松その他の雑木であつて、その材は家材や船材に用いられました。
この村山家の発寒山伐り出しは、村山家の衰退にともない運上金の軽減を願い出ましたが許されず、幕府が東蝦夷地を直轄にする前の寛政八年に、村山家の没落と同時に伐採事業が中止されてしまいました。
安政元年幕府が再び蝦夷地警備をするため直轄するようになつて、石狩に幕吏の詰所を置いた時発寒で多少の木材を伐り出したとあるが、詳しいことについては不明であります。大きな計画的造材というわけではないが、発寒に在住が入る時、屋根板や家材にする角材を「発寒川、琴似円山ノ先キ中島に於イテ角材ヲ採リ発寒川に流シ」とある。(琴似町吏抜)琴似円山とは現在の三角山でありますから、その先きの中島とは、現在手稲村西野の方から流れて来る右股の落口が中島となつていたので、この辺で角材を伐つたものと思われます。

三、農  業

1、手稲山と石狩平野


手稲山から見下ろすと、広々としたはてしない平原、これが石狩平野です。眼下には、私達の住む発寒の地が青々と波うつていて、その中に、ちらちらと白く動くものが見えます。きつと農家の人々が働いている姿でしょう。また青波の中に白くくつきりと浮かんで見えるのが牛舎とサイロでしよう。
山を下つて発寒のそこここを歩いて見ると、大人の人の背より高く、麦、えんばく、とうきびがすくすくと伸びています。
このような発寒は昔から札幌市の蔬菜類をまかなつている大切な土地なのです。どうしてこのように立派な作物がとれるのでしよう。
作物は天候と大へん関係があります。発寒は日本海岸に面していますが発寒の近い海岸は対馬海流という暖流が流れていますそのため夏は暖かいのです。冬はシベリヤの方から冷たく寒い空気が流れて来ますが、途中でこの暖流にあたためられ雪となります。そして手稲山渓にぶつかつて雪をふらしますので、雪の比較的多い方ですが農作物には影響はあまりありません。又雨も全道的に見ますと多くも少なくもないところですので全道的に見ると気候は温暖な所です。そのため蔬菜類、果樹雑穀、水稲等なんでもできます。
唯海岸に近いため風が強く、特に春先の風はぞくに札幌ばふん風といわれるぐらい名物の風で田植時期に吹かれるとこまります。

2、農業に適した土地と不適な土地


私達の学校前の鉄道を境として国道側の土の色と反対側の土の色がちがいます。発寒はこのように大きく二つに分かれていて、国道側の方は土の色も比較的赤くほるとすぐ石ころが出て来ます。反対側の方は黒々としてところどころ、じめじめした所もあります。これは泥炭地帯といつて、発寒川が砂やどろを運んで来て、よしやハンノキ等が下じきになり積みかさなつたところです。そのため水はけが悪くじめじめした所が多いのです。そこを祖先の人達がよい農作物を得るため、みぞ(はい水)をほつたり、別なところから土を持つて来たり(客土)して大変苦労し今のような泥炭地にも作物が出来るようにしたのです。
しかしこれも容易な仕事ではなく、むしろこの泥炭地を「らく農」に利用した方がよく、西発寒の方はこの「らく農」つまり牛を飼う事が盛んです。

3、農業の移り変わりと畜産業


・昔の発寒の農業
今から百年以上前、此の発寒には、アイヌ人がたくさん住んでいました。その跡は今でも畠の中から「ヤジリ」「土器」「石器」等が掘り出されるのでわかりますが、その人達は、山でけものや鳥、川で「さけ」「ます」等の魚をとつてたべものにしていたようです。畠をつくつて作物をとつていたかどうかは、はあきりしませんが、くわのような形をした石器が出るところを見ますと、畠を作つていたかもしれません。
その後、発寒地方を守るために、江戸幕府から山岡精次労という人を頭に二十人程が入地し、発寒地方をおさめるかたわら自分達のたべる食糧を得るために農業をしました。主として大根、蕎麦、粟、麥等でしたが、たのしみのため果樹も植えました。又その頃の一人が上手稲の方に稲もつくつたようですがこれは寒さと発寒川のはんらんで成功しなかつたようです。このように農作物もかなりつくつていましたが今のように農業を専門にしている人はほとんどなく、むしろその頃は林業が盛んだつたのです。今の手稲山附近はうつそうたる森林でそこから切りとつた木材は発寒川を「イカダ」で流し冬は雪車(今のそりのようなもの)ではこびました。
・明治時代の農業
明治時代になりますと、北海道に開拓使というものがおかれました。この開拓使というのは北海道をきり開くための色々な仕事をするところで、まず第一に農地を開くことに力を入れました。そこでどんなものを植えると適しているかという事を古くから開かれている琴似、発寒の地で実験しました。このようなところから発寒はとても大切な所となつたのです。しかしその頃の発寒に住んでいた人は二十戸ばかりで畠も十七町一反ぐらいしかありません。これでは農業だけではたべていけませんので発寒川で魚をとつたり山で木を切つたりしていました。
やがて開拓使で農作物を全部買いあげるようになりましたので人々は進んで農業をするようになりました。
農作物は主に大豆、そば、麦、粟等でしたがその他菜種、馬鈴薯も作つていたようです。
明治八年発寒にも屯田兵が入地し、北海の守りのかたわら農業もしましたので農地も広くなり、色々なものがつくられるようになりました。特に養蚕が盛んになり一般の農家は、西瓜、百合、葡萄等もつくつていたそうです。
又その頃は畠に肥料を与えなくても作物が出来ましたが、だんだん土地がやせて来ますので、開拓使では肥料をつかう事を進めました。
明治二十年になつて、札幌に亜麻会社、製糖会社が出来ましたので発寒でも、亜麻、甜菜が多くつくられるようになりました。ところが此の頃になつて雑穀を買う商人が来るようになり、今までつくられていた、大麻、桑類はだんだんつくられなくなり、かわつて雑穀類が多く作られるようになりました。農家の耕作反別も多くなり一戸あたり三町歩から五町歩もつくられ牛の耕作から馬の耕作にかわり、大小麦、大小豆、が主で麻、亜麻はそれについでいました。又ビール会社も出来、農家も安心してつくられるようになりました。稲は発寒川の近くですこし作られていただけであまり多くつくられなかつたのは、あまり適していなかつたのではないかと思います。
ところが、此の頃になつて畠に肥料をやらないと作物はよく出来なくなつてしまいました。主に人ぷん、馬ふん鰊粕ですが、その内札幌に肥料会社が出来ましたので化学肥料もつかわれるようになりました。
しかし農業も楽にできたのではなくその間、寒さと色々な災害もありました。主なものは、明治二十四年、同三十四年と十年おきにおそつた夜盗虫という虫で、作物の芽や葉、茎をみんな食べあらしています。
又明治三十一年と三十七年には豪雨があり、発寒川がはんらんし作物は全部流されました。
明治四十二年頃になりますと軍隊がさかんに「えん麦」を買うようになりました。ところがこれが北海道に適していますので、さかんにえんばくをつくるようになり、明治四十一年の琴似町のえんばくの作付面積は三百五十町歩、大正十四年には千百三十六町歩にもなつています。発寒もその影響をうけて農作物も、えんばく、ビール麦、菜豆、(■※)豆等がもつとも多くつくられました。又その頃から今までは、だれもかえりみなかつた泥炭地を放牧地として札幌の牛乳をとつている業者に土地をかしていましたが、その内練乳工場が出来ると自分で牛を飼い乳をうるようになり「らく農」経営も始められました。
又農業も次第に機械化され、播種器、足踏脱穀機が使われるようになり又、小型の発動機も使われるようになりました。
・昭和時代
農業の機械化が進み、札幌の人口がしだいに多くなるにつれて発寒の農業もしだいに盛んになり、発寒の土地もほとんど耕作しつくされて来ました。
又円山に青果市場がつくられ特に山鼻、円山地帯が住宅化して来たため琴似町は札幌市の蔬菜の供給地として大切になつて来ました。又泥炭地は完全にらく農化されましたが、その間色々戦争があり、その影響で色々耕作物も変りました。牧畜も、発寒川近辺に移つたり泥炭地にもどつたりしましたが、大東亜戦争のため農業もすつかりおとろえました。
・農業試験場
発寒の農業を盛んにした原因の一つに農業試験もあります。明治三十四年に農業試験場が出来、大正十四年に現在の琴似に建てられました。そのため近くにある発寒は大変農業をする上に便利になりました。中央発寒にある高いポプラに囲まれたリンゴ園はこの試験場のリンゴ園で、ここで病害、栽培法等を研究し、その為、発寒でもリンゴを栽培する農家が多くなりました。
・朝 市
みんながまだねている三時か四時頃、三輪車や馬車にたくさん野菜をつんででかけます。朝市といつて円山にある野菜市場に野菜を売りにいくのです。四十三万もある札幌市の人々が一日にたべる野菜は大変なもので、市の中心の他、琴似まで受託地になつた今では、発寒は野菜の供給地として大変大切な場所になりました。
昭和二十年以後は農業の仕方も落つき、らく農は泥炭地帯でも、そうとうおくの方に移り、発寒の中心地帯は主に疎菜を作るようになりました。主にキヤベツ、はくさい、きめうり、なすび、菜豆等で一つの畠で二回もとつています。
又、今まで馬でおこしていたのが、此の頃では耕運機という機械で耕作しています。馬とくらべると三倍も早いそうです。このように農業もすつかり機械化され、仕事が楽になり、能率も上るようになり、冷害や、害虫にもうち勝つようになりました。がその間の農家の人々の苦労も忘れる事はできません。
・発寒の畜産業
発寒の畜産業は、日高、釧路からみるとそう盛んではありませんが、泥炭地が多いのと札幌近郊であるため販売力があるため、かなり牛がいます。でも昔は物を運ぶため、ほんの二、三頭しかいませんでした。屯田兵が入地した頃、開拓使が畜産を奨励したため馬が多くなりました。しかし馬になれない人が多かつたためだんだん少なくなりました。
明治三十五年頃になつて耕作に馬をつかう事になれ、大きな農家では五頭から十頭も飼う家がありました。
乳牛は明治二十八年に一頭入れたのが始まりでその後、札幌に練乳工場が出来、ミルクプラントも出来て「らく農」が盛んになりました。
それと同時に他の家畜も飼う事が盛んになりましたが戦争があつたりしたため非常に少なくなりました。
又戦争はこの発寒も札幌市となり人口が急に増えると共に住宅地となり鉄道より国道側は、ほとんど住宅地又は工場地となつて農地が少なくなり、雑穀はほとんど作られなくなり「疎(くさかんむりあり)菜」と「らく農」に変つています。

4、農業協同組合


農家の人々がお互いに助け合いながら栄えるようにするために組合をつくつています。それを「農業協同組合」といい昭和二十三年に創られました。それ以前は明治三十三年に琴似農会がつくられましたが仕事は農業に関する話しをきく程度で今とは比べものにならないものでした。
明治四十二年の自由販売になつてやつと穀類を販売するようになりました。
その後、明治四十三年、産業組合が出来たり、昭和十九年に琴似町農業会が出来ましたが、昭和二十三年農業協同組合が出来てからは人々が協力して立派な仕事をしています。

・果 樹
発寒の果樹は古くからつくられ、山岡精次郎が入地した時に「モモ」「グミ」「ナシ」等を植えたようですが、その後、屯田兵が入地した時、一六・七本支給されました。しかし管理が悪くだいぶ、いたんだようです。その後札幌近郊の林で栽培が盛んになり、琴似町で五千九百本もの、りんごを植えました。
又後にりんごの他、さくらんぼ、なし等も植えましたが今は住宅た多くたてられて来ましたのでだんだん果樹も少なくなつて来ました。

四、交通・通信の移り変わり

1、昔のようす


昔は発寒が、琴似、札幌一帯の大切な地点で、交通といえば、発寒川の川岸を伝つて歩くか、鹿のふみ分け道を利用するか、あるいは、石狩川から発寒川へと丸太舟で川を上下するかの三つの方法に限られていたが、陸路が全くの刈り分け道程度のため困難な事が多く、その頃としては、川が一番大切な通路でした。
徳川幕府が北海道の開拓を考えるようになつてから、先ず道路を作る仕事に手がつけられました。たくさんの役人が、本道に来るようになり、あちらこちらの測量がはじめられ、だんだん交通が便利になつてきました。
安政四年(一八五七年)には、札幌越(豊平から札幌、発寒、銭函を通つて石狩に通ずる道路)という道路が出き上り、銭函ー千才間に馬による運送が行なわれようになりましたが、あまりよい道でないため、やはり生活に必要なものは、舟を利用していました。
やがて明治四年に開拓長官が札幌に移つてから、札幌、小樽間の道路を計画して、明治十二年にようやく出き上り、雪車(今の馬橇)が冬の交通の重要な役割をはたしました。その料金は
 札幌・銭函間 大人 二十銭   子供 十銭
 銭函・小樽間 大人 十九銭   子供 九銭
と、きめられていました。
銭函、小樽間は札幌、銭函間より五キロメートル以上も短いのに料金がそれほど安くないのは、道が非常に悪かつたためといわれています。
この開通によつて、これまで物資輸送の中心であつた、石狩・札幌間の水路はあまり重要でないものになつてきました。この道路が今の札樽国道のはじまりです。
郵便も明治五年、札幌郵便局が開設され、手紙が来ると、町の会所や村役場などにとどけられ、そこから小使さんが本人の所へ届けるというようになつていました。
郵便物は、函館から舟で室蘭に渡り、室蘭から室蘭街道を通つて札幌に運ばれ、小樽へは札幌から毎月六回ずつ送られ、根室方面へは、札幌から苫小牧に出て、日高をまわつて海岸伝いに送られていました。
そこ頃、はがきはなく、封書七・五グラムまでが二銭で、七・五グラムごとに二銭ずつますものでした。
明治十三年、札幌と手宮の間に日本で三番目の鉄道として北海道ではじめての鉄道がつきました。
この鉄道は幌内鉄道と名づけられ、幌内の石炭をはこぶことと、石狩平野を開拓するのが、目的でした。
この鉄道が敷かれるまでにはいろいろと困難な事がたくさんありましたが、ことに張うす海岸の漁をする人々からは、そんなものを通されては、にしんがよりつかなくなるからと大反対がおきて汽笛をならすことができず、鐘をならして走ることにして、きまつたという話もあります。
又、札樽道路が出きたときに、石狩、札幌間の水路を利用するものが、全くなくなつたと同じように幌内鉄道がつくと、それまで、にぎわつていた札樽道路も一時に衰えてしまいました。そして特に銭函、小樽間は、道路が鉄道にかわつたので、やつと鉄道のわきを人が歩けるほどの道になり、車馬の通行ができず、このため、二十四軒や、十二軒に、馬をもつて運搬業をしていた人たちは、仕事ができなくなり、新しい生活の道をさがすより他なくなつたといわれています。
この頃から琴似に停車場がありましたが、その大きさは、約十七平方メートル程の小さな堀立小屋の粗末なもので、お客のある時は赤旗を出しておくと、停車してお客を乗せるが、お客のない時には素通りしてしまうというもので、しかも駅で仕事をする人が、たつた一人しかいなかつたというから、今の私たちでは考える事もできないような有様だつたと言えましよう。
明治七年に札幌電信局が開設され、函館、千才、札幌、小樽間の電信が行なわれるようになりました。その頃電信に対しては、いろいろな迷信的なことが流行し、電信の下を通る時は、けがわらしいものとして、頭に扇子をかざしたて通つたり、又電線に汚物をかけるというような事がありました。
明治三十五年、琴似に郵便局ができ、郵便物や貯金を扱つたりするようになり、大正五年には電報が扱われるようになりました。
又電話は札幌郊外にある関係から電報よりも早く、大正元年に札幌市内と同じように通話が開始され、当時の人々はおどり上つて喜んだということです。
その後、会社や工場などがどんどんふえて来たので、琴似郵便局の他に昭和十八年には、駅前郵便局もできて、発寒の人々にも近くて都合がよくなり、通信が大へん便利になつてきました。

2、今のすがた


琴似は札幌市の住宅街として、最近急に発展してきましたので、琴似駅の乗降客の数も非常に多く、汽車で通つている学生、勤め人、魚や果物を運んで、それによつてくらしを立てている人たち、このほか、汽車を利用している人たちが、一日に八千人もあるといわれています。
又市営バスによる交通も便利で、琴似駅と大通りのバスセンターの間を一日百五十回も往復し、札幌市内では一番乗客の多い線となつております。発寒も南の方は琴似駅や琴似線のバスを利用していますが、中央発寒や東、西、北発寒にも近ごろは、どんどん住宅が建つて、バスの開通をのぞむ声が高まり、昭和三十二年五月十六日から、大通り・発寒小学校前間の路線が開通しました。汽車やバスに乗れなかつた人達も便利がよくなつて、大そう喜びました。
将来札幌・小樽間の鉄道が電化されるか、又はジーゼル車になつた場合、発寒駅が設置されることも決して夢でなく、発寒駅から汽車にのり、その昔、べんけい号や義経号が走つた線をジーゼル車で走るのも近い将来の事ではないでしようか。

3、交通年代表


西暦   日本歴   事項
一七八七 天明七年  ハツサブ山の木材を伐り出し発寒川を流送
一七九七 寛政九年  千才越があつた。
           勇払→(川舟)→美々→(山越)→千才→(川)→石狩
一八五七 安政四年  札幌越を完成
           千才→札幌→発寒→銭函→石狩。
一八六九 明治二年  札幌小樽間に連絡路
一八七◯ 明治三年  新川堀割の計画。
一八七三 明治六年  札幌銭函間県道完成
一八七五 明治八年  屯田兵入地により、碁盤目の区割道路が出来た。
一八七九 明治十二年 銭函小樽間の県道完成。
一八八◯ 明治十三年 幌内鉄道(札幌ー手宮間)完成。
一八八二 明治十五年 幌内鉄道(札幌ー幌内間)完成

交通年代表をみてわかるように、大体この近くの交通の模様がわかります。
一方全道の模様を一寸考えてみましよう。まず陸の交通と同じように海の交通も大切でした。そしてこの頃開拓使だけが使つていた船は二◯◯屯から六◯◯屯くらいの船で、航路は次のようにできていたようです。

明治 二年  室蘭 ー 森
明治 五年  函館から東京、大阪への連絡
明治 六年  青函定期連絡
明治 八年  函館、小樽間定期通航
明治一一年  函館から根室への定期船

このように大へん便利になつてきたのですが産物をつんだ船が毎年たくさんしずんだりしたので開拓使は明治八年に七◯屯以下の和船は、使つていけない、ととめました。
また燈台も少しずつつくられていきました。

(蔬菜=そさい、※くさかんむりの下にノに米)