覚    書
第一条 発寒小学校敷地に充当するため、発寒神社所有地を使用する交換条件を次のように協約する。
第二条 発寒神社はその所定する次の土地を発寒小学校増築敷地に充当するため無償で、これを琴似町に譲渡することとし代表役員は、この寄附抹納額を琴似町に提出するものとする。
   記
琴似町字発寒九八四番地の全坪数
第三条 琴似町は、この代替敷地として現在農林省(国有農地)より借受けている次の土地を農地法の定めるところによつて、売却うくるに至つた時は、これを発寒神社に無償譲渡するものとする。
   記
一、琴似町字発寒八一◯番地の二
  地目畑、二、六反
一、  〃   八一四番地
  畑 三、◯◯三反
一、  〃   八一二の二番地
  畑 一、九二四反
一、  〃   八一五番地
  畑 二、五二八反
第四条 土地の交換は相互に土地交換に必要なる手続が完了されたときにおいて行うものとす。
第五条 琴似町は第三条に定めた土地に、本協約の日以降逐次琴似町費をもつて神社の施設を移転するものとす。
 但し移転する施設については、原型のまゝとし、使用効果の程度も移転時の現状とする。
 施設の配置は両者協議して決めること。但し移転に要する整地費は、神社氏子の負担とすること。
第六条 移転する施設は次の通りとする。
   記
一、社   殿
一、社 務 所
一、鳥居燈籠その他石造営造物
 但し記念碑についてはこの限りではない。
第七条 神社境内にある植樹の処分は次の通りとする。
   記
現在発寒神社境内にある植樹はこの覚書を交換し第五条に定める施設を移転完了後、一年以内代表役員は、これを他に移植又は、処分するものとす。
なお代表役員において学校に植樹を寄附せんとする場合は別に協議する。
右後日の証拠としてこの覚書を作成して各々壱通を領有する。
 昭和二十八年四月二十一日
  琴似町長 曽 我 初 観
  代表役員 有 田 久 一
  責任役員 南 部 義 栄
       内 山 安 治
       岩 井 伝 松

  契 約 書

一、琴似町と発寒神社代表役員有田久一との間に発寒神社代替地の交換について、昭和二十八年四月二十一日に覚書に基づいて次の事項を契約する。
第一条 覚書第三条の賃貸料及払下代金は琴似町が支払うものとする。
以上の契約の証として、本書弐通を作成し各壱通を所持するものとする。
  昭和二十八年五月一日
     琴似町長 曽 我 初 観
     発寒神社
     代表役員 有 田 久 一
     責任役員 南 部 義 栄
      〃   内 山 安 治

(二)立地条件の実態と検討
創立以来三十有余年、五百余名の児童数をかゝえ、而も尚益々発展上昇の一途を辿る本校の将来性から、これ迄の敷地拡張の経緯に見られる予定地が、どの様な推移によつて取得されるかは別として、公式に校地として名づけるものは僅か一◯◯九坪であるということは、不幸なことであつて、あまり例のきかないところであります。
このことは単に面積がせまいという表面的な障害は、校舎増築の必要の都度、一応の了解工作によつて支障なく建築されて来たので甚だしい制約はうけないにしても、建物以外の環境構成が児童に与える教育的な影響を考えますと、無形の障害となつて来たことは否定出来ないのであります。
校地となるべき箇所而も、校舎附近が笹やぶであつたり、建物移転跡地の整地ないため、思わしくないことや、それにもまして、大事なことは、建物の配置を将来に備えて再検討を要する場合でも、このことが前提となつて、どれだけの障害となつて来たかは、はかり知れないものがあつたことは、関係者の等しく認むるところであります。
今こゝで学校が新設される場合の執らねばならない必要な事前措置として一般的な要件にふれると共に、今後予想される校地をも含めて、実態がどうであるかを検討してみる立場から、左に指摘してみたいと思います。
尚この場合あく迄現況の立場において考察されることに観点をおき、綜合開発とか札幌都市計画の施策が今後において実施されることゝなると当然観点も変つて来なければならないことを前提としなければならないと思われます。

(1)自 然 的 要 件
1、敷地の位置
校下戸口の分布上からみれば偏在とも云えるけれども、全児童の通学距離から大凡中心にあたつており、従来学校設置とか移転に際して多くの紛争の種になるのは、通学に遠い近いという距離的な主張の衝突が主となつて来ている様である。
大多数の通学者の利便を考慮ずる配慮は、当然ながら、少数だからとて、無視していゝわけはないので、特に当時は、非農家の世帯が微々たる状況から、中心的位置に左程の問題もなく決定されたものであろう。
こんにち、東発寒の新川寄り校下の一部は、新川小に通学しており、北発寒も同様、特に発寒川長永橋を利用して琴小に通学することを便とする一部父兄については、かつて昭和二十四五年頃に紛争となつた約百名余の校下児童が、琴小より本校に復帰することに頑強な反対を続け、町理事者はもとより、大きな教育上の問題として世上に喧伝された事態は、この種児童の転校問題となると、理論的には行政上の措置が、正しかつたことであつても、父兄の主張する学力の低下に影響ありとする不安定な精神的な面よりも、通学距離上大差ないために、変動を好まぬ素朴な父兄の主張ととも云い得るのである。
そしてこのことは、大多数の通学者が至近距離に位置してあつたとしたら、問題も起らず、学校の規模や施設内容について変ぼうされてあつたことであろう。
更に又、図上機械的に中心的位置であるからとして、それが何れも片よらぬ公平な措置であるとする事例など、現在模式的に知る諸方においては、スクールバス等の利用から、むしろそれ以外の必須な要件を前提として位置がきめられていることで、こうしたことからみれば、当初において多くの検討すべき余地もあつた様である。

2、地盤・環境その他
土地の形状は平面に越したことはないが極端ではあるが、山腹、谷間、傾斜地など不向であることは論をまたない。それに地盤関係も重要なことで、砂丘や泥炭地などは、単に建物の不安手のみからでなく、飲料水の便が至難となつてくる外に、樹木の育成、風致上から、更に風水害等災害の危険から、安全度の高い場所が要求せられる。
本校は右の自然的な要件は大体に於て指摘する点はないのであるが、傾斜地であることは、建物の建築の場合格差をつけねばならないことであつて、管理上の障害の外に、地均しを要する場合、昭和二十五年夏に見られる如き、予算の制約上、校下父兄の多大な労力提供等が望まれることなど、校地全域効率の高度化に遺憾の点あることは否めない。

(2)人 為 的 要 件
1、騒音防止の立場から
函館本線に道路をへだてゝ校舎があるという学校もまた珍らしい。以前は回数も尠かつたが上下百回もの復そうを来している現在、学習の効率を妨げる点は決して尠くないのである。
2、通学上の障害点
交通量の多い国道など、途中に横断する箇所などは安全を確保する意味で避けねばならないことは勿論で、通学者の大半が、鉄道踏切りを超えねばならないことは、都心の学校ならば止むないとするも、決して好ましいことではない。
昭和三十二年三月、鉄道当局の計らいで、学童の通学上安全確保の立場から、自動警報器の設置をみたことは、多年の懸案が達成されたのである。
3、人災防止上から、その他
人家の稠密な地帯は、火災などの危険防止から避けねばならないし、環境が風教上特に教育的に考慮されねばならないことで、こうした点の配慮から、文教地帯として、集中的に構成される様な事例など、特に重視する所以に外ならない

(3)取得の難易と行政的措置
以上立地上の自然的にも、人為的にも一般客観的な要件と併せ、本校の現実の校地につき検討を加えてみたのであるが、こゝに見逃すことのできないことは、取得の難易であろう。
このことは人為的な要件として、可能な限り、努力しても絶対的に入手出来ない場合もあり得るであろうが、財政的な裏付よりも、名儀変更の困難性によつて、選定を変えねばならない事態の多いこと。この様な困難性から、設置者団体所有地が、確保されてある場合は、多少の立地上の制約があつたとしても、決定されることゝなるのであるが、本校の場合、校下に多くの町有地があり而も今尚農試験地として一部売却して南発寒の果樹栽培地格好の適地と識者間の意見もきかれる程の条件を備えながら、個人の寄贈を是として当初から今日に至る迄何等の財政的な措置を講じられなかつた安易さは、外に種々な原因は知る由もないが、本校地拡張という絶対的な課題に立つ本校に対する行政措置としては、検討さるべき問題であつたことゝ思うのである。

(ホ)結  び
以上にて、本校々地が種々な制約下にありながら、建物増築に伴う敷地の提供や、屋外運動場の設定に際しては、手続を後廻しにしても、兎も角地元学校の発展のため、協力された前記竹沢、寺田氏等及び更にさかのぼつて代替地所有者迄及ぼした武田工業会社並びに発寒神社側の協力は特筆さるべきであり、且つこの間、絶えず町当局を鞭撻しその間にあつて、斡旋工作を続けられて来た農業委員会の地元有志の努力があつて今日を迎えたこと。及びこのことは終戦直後の自作農創設という変革に幸いしなかつたならば、叙上の取得における曲折が、更に困難を加えたことであろうと思うのであります。
昭和三十年当初において時勢の推移は札幌市との合併を生み、拡張の経緯にみる覚書、手続中のものを含め、旧琴似町時代に果たされなかつた、諸問題の一切が、引継がれたのでありますが、われわれは、一日も早く正式の校地となる様期待するものであります。
最後に札幌市史には「札幌本府は島判官により経営に着手せられ、岩村判官、西村権監事等が、その再建に従事したが間もなく、明治四年、黒田次官が帰朝し、ケプロン等の献策に基づいて洋式都市の建設に取りかゝつた。」とあり、今日の大札幌市の発展の基石は、都市づくりの当初の先覚者たちであつたこと。更に都市計画法が設定せられ、法の裏付も容易となつた現在、校下の発展と共に、これが実施は多少の困難はあろうが、道路公園学校等の配置設定は、早きに越したことがなく、本校の実情から、住民の熱意協力と併せ将来性のある客観的な行政措置が改めて緊要であることをつけ加えるものであります。

4、保護者会とPTA
(1)保護者会時代
昭和十一年までは会則というようなものはなく卒業式、四大節等に茶菓を配り種々教育後援団体として活動しましたが、正規の会員組織もなかつたようです。
昭和十一年石山校長着任後会則を設けてこれに準拠しましたが(会則不詳)、昭和十八年熊中校長時代に従来の保護者会を拡充し校下全員(児童の有無にかゝわらず)をもつて保護者会後援会を組織しました。
(2)父母と先生の会(PTA)
昭和二十一年三月三十一日発寒小学校父母と先生の会が発足しました。
昭和二十二年三月三十一日定期総会を開き会長に竹沢幸一氏、副会長に大崎正一氏が就任しました。四月三十日臨時総会を開き校舎敷地買収について協議しました。
昭和二十四年四月十八日に年次総会を開き会長に大崎正一氏、副会長に今井銀一氏と学校側より相沢校長が就任しました。前会長の竹沢幸一氏は顧問として就任する事になりました。
昭和二十五年四月二十二日に総会を開き、会長に今井銀一氏、副会長に里見虎治氏が就任しました。
昭和二十六年四月八日に年次総会を開き従来会則の記録がなかつたので、アメリカ教育使節団の勧告及び文部省参考規約竝にアメリカ連邦PTA会長、ジヨンヘース女子等の助言に基く新しい規約を設けました。後、役員改選を行い会長に宇山於兎雄氏、副会長に里見虎治氏、学校側より吉田利吉氏が就任しました。会計に大崎正一氏、書記に学校職員平塚常四郎先生が決定しPTA会が充実しました。
五月二十二日創立三十年記念事業期成会を設立し、明年十月一日の開校記念事業として、ピアノ一台及び学芸会ステージ用幕一式、エルモ幻燈機一台の寄贈のため、会長に宇山於兎雄氏がなり、二十万円あまりの募金が実現し十二月五日に学校へ寄贈されました。
昭和二十六年道徳教育研究会が本校で行われましたが、PT会員多数の後援を得ました。