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郷土史 「はっさむ」

発寒小学校郷土史編集委員会/昭和44年10月1日発行
発行者/札幌市立発寒小学校、開校五十周年記念協賛会

hatu201.jpgお祝いのことば

発寒小学校長 原 武司

発寒小学校は、大正十一年(一九二二年)に開校しました。その時の全校児童数は、六十五名だったそうです。それから数えて、今年がちょうど五十周年になります。このめでたい年にめぐり合わせたことを、みなさんといっしょに喜びたいと思います。開校記念日は、北海道の山に木の実の熟しはじめる十月一日です。そしてこの記念誌は、発寒の父母と先生方の心をこめた、皆さんへの贈りものです。
みなさんの住んでいる発寒の土地は、札幌市の発展に伴って、木工団地や鉄工団地ができ、また、みなさんの居住地として、十年位前から急に賑やかになりました。学校もそれとともに大きくなって、発寒西小学校と発寒南小学校が分校しました。これからもまだまだ小学校や中学校をたてなければならないように、発展を続けていくことと思います。
北海道が開拓されて百年以上になります。そのころから発寒川の流れに沿って、私達の先祖が入植し、朝に夕に手稲の山なみを仰ぎながら、開拓の鍬をふるった人々の苦労は、どんなにか大きかったことでしょう。みなさんは自分の住んでいるこの発寒が、どのようにして開かれたかを知って、私達のよい学校づくりにはげみましょう。そして、それがよりよい発寒の街づくりにつながるようにしなければならないと思います。
こんどの開校五十周年記念には、開拓の初めから住みついておられた古い方も、新しく発寒に住むようになった方も、発寒西小学校や南小学校へ分かれた父母の方も、一体になってお祝いして下さいました。みんなで感謝いたしましょう。

郷土誌発刊にあたって

発寒小学校五十周年記念協賛会長 荒屋敷 実

発寒小学校も、開校してから早くも五十年。その年を記念してなにかの催しをと考え、郷土誌を発刊するため、協賛会を結成してその準備をすすめて参りました。
思いおこせば、私が小学校入学時の発寒は、戸数も百戸たらずの一寒村でした。当時の一年生は琴似尋常高等小学校、現在の琴似小学校まで四キロの道のりを歩いて通学をしたものです。当時村会議員をしておられた三谷源太郎氏(現在市会議員の三谷誠一氏の父)が奔走されて、九百坪の竹沢ナカさんの学校用地の寄付、西創成小学校の古材をもらいうけ、大正十一年十月一日に、地区住民の奉仕によって開校の運びになったのです。
開校当時教室一、運動場一、教員住宅併置、一年生から六年生まで一教室で校長先生一人で教鞭をとっておられました。今では、発寒西小学校、南小学校、そして今年中にはもう一校の小学校も開校の運びとの話も聞いております。開校当時六十名位の児童が現在千三百名と、そして三つの分校、地区住民数も三万名を数えるような急激な発展をみる地域に変りました。
昭和四十七年二月には世界の祭典冬季オリンピックが開催され、世界の若者達が、わが札幌に集まり、成功のうちにその幕を閉じたことは、いまだに心に残っておられることでしょう。
そして、待望の政令指定都市、区政執行、大都市の仲間入りをした大札幌市の西区の片隅に位置する発寒小学校、PTAの人たち、地区の住民の方々、同窓会の皆様方も、意義あるそして終生忘れ得ないであろうこの年に五十周年の催しの出来ることは、私たちの非常な喜びとするところでございます。郷土発寒と、発寒小学校の一層の発展をねがってやみません。

記念誌の発刊にあたって

発寒小学校PTA会長 石川 充男

大正十一年十月一日、発寒小学校の歴史上の一頁をふみ出してから五十年の歳月が流れ、ここに記念すべき日を迎えました。
昔のことわざに、人生わずか五十年とありますが、本校においては、ますます発展し充実した学校教育の礎が築かれたわけです。この陰には、発寒地区の開拓、発展に寄与されてきた先覚者のみなさんのなみなみならぬご苦労を忘れることはできません。
本校も開校当時は、生徒の数も少く、六十五名で複式授業を受けていたと聞いておりますが、現在では、千三百名におよぶ児童を擁し、三十三学級と、市内有数の大規模校に成長しております。
この間に、二千三百五十名におよぶ卒業生を、社会・または上級学校へと送りだし、さらに、発寒西小学校、発寒南小学校と相ついで本校から分校し、それぞれ地域を分担して児童の教育にあたっております。
この輝かしい発寒小学校の歴史を記念するための事業推進にご協力をいただきました諸先生、並びに札幌市立発寒小学校五十周年記念協賛会全員のご理解と、ご厚意の数々に心からお礼を申し上げます。
特に、この記念事業の一つとして、多くの資料をもとに編さんされましたこの記念誌によって、発寒地区の開拓のようすを想い起こすと同時に、発寒小学校の歴史をふりかえって、地域の認識を新たにすることは意義深いことだと思います。
また、住宅地域、工業地域として発展する中にあって、ますます重要な役割を果す児童教育の機関として、発寒小学校の限りない発展をお祈りするとともに、この間お世話になったみなさんに、改めて、心からお礼を申し上げます。


※当時の原文そのままをテキストにしています。

グラビアページ

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本文

発寒の歴史

一、大昔のようす

1 北海道の生いたち

北海道に人が住みはじめたのは、いつごろからだったのでしょうか。確かなことはわかっていませんが、それは三万年前よりももっと以前であったことだけは確かです。
そのころの北海道は、本州やカラフト、シベリヤと陸つづきで、今の日本海は大きな湖でした。ですから、人間は動物を追って大陸から移ってきたのでしょう。マンモスを追ってくらしていた人びとは、そのころの人たちです。
それは、今からおよそ一万年六千〜一万八千年前、津軽海峡ができて、本州と切りはなされるまで続いていました。しかし、まだカラフトと続いていて、北海道は大陸からつき出た半島のようになっていました。
宗谷海峡ができて、一つの島になったのは一万三千年前のころだろうと考えられています。それは、最後の氷河期が終わり、だんだんあたたかくなってきたからです。そのころの人びとは簡単な石器を使って、狩りや漁をしてくらしていましたが、土器はまだ使われていませんでした。
土器がくらしに使われはじめたのは、今からおよそ七・八千年前、新しく本州の方から土器を使う文化が、だんだん北海道にまで広がってきてからでした。

2 大昔発寒に住んでいた人びと

今から約六千年ほど前(新石器時代)、今よりももっとあたたかい気候になり、氷河がとけて、海面が、今より三〜五メートル位上がりました。(縄文海進といいます。)石狩湾と苫小牧をつなぐ低い地帯が、そのために、浅い海や沼地になっていました。
この時期には、浅い海が発寒の近くまで入りこんでいました。そのころの発寒に大昔の人びとが住んでいたあとがあります。発寒小学校うら(今は住宅がたっています)からほり出された土器の破片は、およそ四・五千年前、そのころ人びとが使っていたものです。その土器は、底の先がとがったもので、ふつう静内中野式尖底土器といわれているものによく似ています。
その後、数千年の間、この辺一帯にも大昔の人びとが住みつづけていました。それらの人びとの残した遺跡は、古いものほど山の手・円山・発寒などの高い地帯にあり、年代がさがるにしたがって低い地帯にあるのは、発寒地域の土地の変化と関係があるのでしょう。発寒川の流れによって、上流から運ばれる土砂が長い間に低い土地をうめ、浅い海や湿地帯が陸地になり、大きな扇状地ができていったのです。
その間には、北の方から新しい文化も伝えられたりして、くらしのようすが少しずつ変っていきました。今の発寒神社の境内にあるストンサークルの遺跡は、シベリヤ大陸の方から伝えられた文化と、この発寒の地と関係があることをしめしています。ストンサークルは、そのころの人びとの墓だといわれていますが、確かなことはわかっていません。

3 アイヌ人の祖先

本州の方では、約二千年前から、しだいに縄文式文化の時代から弥生式文化の時代に変っていきました。北海道にも、およそ千四・五百年前から、その南の文化が渡島半島を通って、少しづつ伝わってきました。それで、今までの魚やけものだけ食べていたくらし方に、アワ・ヒエ・ソバなど簡単な農業をいとなむくらし方が加わってきたわけです。そのような人びとが、アイヌ人の祖先だと考えられています。その人びとは、やはり、たて穴住居に住んでいましたが、もう土器を使いはじめていました。
そして、およそ七・八百年前から、本州の人びと(和人)が北海道にわたってくるようになりました。

4 アイヌの人びと

昭和七年、北海道大学の先生が、ストンサークルを調べた時、ほとんど同じ場所に昔の人の墓が二つ発見されました。その中に、いっしょにうめられていた品物やお金を調べたところ、その墓は、約五百〜二百年前(江戸時代初期)のものとわかりました。それによっても、もう、そのころは本州との間に品物の行き来が盛んだったことがわかります。
まだ、たて穴住居に住み、土器や簡単な鉄器を使ってくらしていた人々の文化を、直接受けついだのがアイヌの人々だったと考えられていますが、しかし、このように、本州との品物の行き来が盛んになると、それまでおもに土器を使っていたくらし方は、すっかり変わり、陶器・漆器・鉄鍋などが使われるようになってきました。しかも、それらの道具は、アイヌ人は自分達で作りませんでしたから、くらしに使う大部分の品物は、本州の方から来るものにたよっていたことがわかります。
発寒川が、山の手の奥で二股に分かれる手前の右岸につき出た丘(オペッカウシ・尻が川の上についているところ)があります。その西側が急ながけになっている丘の先にチャシがありました。チャシというのは城あとのことで、いろいろなことに使われたらしいのですが、広く見渡すことのできる高い所に作られるのが多く、人が簡単に近づけないように、まわりに堀をめぐらしてあります。戦いに使われたこともあったのでしょう。発寒川岸のチャシは、おそらく、このころのものと考えられます。

5 和人とのあらそい

アイヌ人は、野山や川に自然の食物が豊富にあったので自分で作物を作ったりせず、狩りや漁をしてくらしていました。夏は、漁をするのに都合のよい川のほとりに、五・六軒〜二・三◯軒の村をつくってくらし(「夏の家」)、冬になると、動物を追って、山奥の冬の家に移り住む(「冬の家」)というように、自然の恵みをすなおに受けてくらしていました。だから、自分たちの土地と自然を大切にしていました。
しかし、和人がたくさんやって来て、くらしの道具をその人たちにたよるようになり、豊富な自然の恵みも、和人にだんだんおかされるようになると、各地で和人とのあらそいが起こりました。
今から五百年ほど前(一四五七年)えぞの酋長コシャマインのひきいるアイヌ人と、和人との間にあらそいが起こり、アイヌ人が負けてしまいました。その後、南の渡島半島から、北の方に和人がどんどん入るようになりました。東のシブチャリの酋長シャクシャインが、一六六九年、和人とのあらそいで殺されてから、北海道全体を和人が思うようにおさめるようになりました。
“石狩場所”が開かれたのは、その少し前、今から四百年前(一六◯◯年ころ)とされています。

6 アイヌの人びとと発寒場所

石狩川は、鮭をはじめ、まわりの野山も、四季おりおりの食物がゆたかでしたから、川ぞいには、多くのアイヌ人が住んでいました。もちろん、発寒川のほとりもそうでした。アイヌ人たちは、くらしをしている場所の特ちょうをつかんでその土地に名まえをつけていました。
『発寒』のもとになったハッシャブもそうです。
(発寒は、古い記録や古い記録や地図では、ハッシャフとかハッサフというのが多い。そのもとの意味は、はっきりしないが、松浦武四郎のハッシャム・桜鳥が多いところ、知里真志保博士のハッチャム・葡萄のかたわら、永田方正のハッチャム・桜鳥という説があります。)
和人たちは、この石狩川の十三の支流に、それぞれ場所をもうけ(石狩場所)アイヌ人がとってきた鮭や熊の皮などと、本州から運んで来た品物を交かんする所にしました。発寒川の川岸にも、一七◯◯年頃、発寒場所という交かん所ができました。
古い記録(寛政年間のもの)によると、発寒川の岸辺にあったアイヌ部落(今の発寒川の鉄橋川下の右岸)には、十三戸、五十六人とあります。この数は、石狩場所の中でも多い方で、発寒川の流域は鮭を中心に、ゆたかな自然のものにめぐまれていたことがわかります。
物と物との交かんは、はじめはオムシャという、知り合い同志が久しぶりに合った時にするアイヌ人のれいぎにしたがって、おくり物のかたちで、アイヌ人と和人が平等のたちばで行なわれていました。
しかし、本州の和人からの品物の要求の数が多くなってきたり、それまで松前藩の武士が直接交かんしていたその権利を商人(場所うけおい人)にゆずって、そのかわり運上金という税金を取ったりするようになると、『場所』は商人の金もうけの場になりました。そして、だんだん、不平等な取り引きをするようになり、アイヌ人たちを苦しめました。
このようにして、松前藩のおさめたころは、漁をする権利は、場所うけおい人の手にあって、アイヌ人は昔のように思うように漁ができなくなりました。安政二年(一八五五年)また、幕府がおさめるようになり、あみひき場(ウライ)をきめて、そこでは自由に鮭をとってもよいことになってからは、アイヌ人たちは、ひさしぶりに元気をとりもどし、自分たちの漁に精だしました。このため、石狩のアイヌは、和人の魚場には、ほとんどいなくなり、ほかの土地から多くのアイヌ人が、出かせぎに集まりました。しかし、その人びとも、和人の金もうけのため、安いお金で働かされました。
また、和人からうつったでんせん病で、たくさんのアイヌ人が死んだりして(安政九年、ほうそうで石狩アイヌ人六百四十五人が死にました。文化十四年、ほうそうで石狩場所の人口が二千人もへります。)豊かな自然の中でくらしていたアイヌ人は追いだされ、石狩川の近くにたくさんあったアイヌの村も、だんだんなくなってしまいました。
発寒川のアイヌの人びとも、川すじに一ヶ所だけ許されたあみひき場で、番人のかんしを受けて働いていましたが(この時、発寒アイヌは二人だけだったと記録にあります。)この川が安政五年(一八五八年)種川となった時、長い間続いた場所も終わりをつげました。
アイヌ人たちは、その後、わずかな畑をたがやしたりしてくらすようになりました。そのころ、土地をおさめていた役人たちは、自分たちのもうけのため、アイヌ人が農業をすることをきらい、畑を作るじゃまをしました。だから、畑をたがやすことも思うようにいかなかったのです。

二、発寒の夜明け

1 最初の移住者ー発寒在住

発寒にも、だいぶん前から、アイヌ人とのとりひきのために、いくらかの和人がすんでいたようです。とりひきをするときだけ、和人がくるのがふつうでしたが、エゾ網引場(ウライ)がつくられてからは、アイヌ人の冬の間のえものを見はるために、番人が住んでいるところもありました。発寒ウライにも、そのような番人が住んでいた記録があります。
発寒にながく住みつく目的で、最初に移り住んだのは、発寒在住として、安政四年(一八五七年)二月二十八日、大竹慎十郎という人でした。その年の春になって、発寒開拓の中心になった山岡精次郎、永田休蔵らが、この地に移住して、最初のくわを入れました。このときに入地した人々として二十名の名前が記録にのこっています。
在住というのは、中国の屯田の制度にならって、江戸幕府の役人が考えたもので、北海道を守りながら、開拓をすすめようという制度です。これは、のちの屯田兵制度のさきがけとなるものです。
第一回目は、一八◯◯(寛政十二)年、八王子同士百名を、釧路の白糠と勇払に移住させましたが、内地の農業のやり方をそのままもちこんだので、わずか四年で失敗に終わりました。ですから、『在住』としては、第二回目の発寒在住が、ほんとうの移住と考えられます。
そのころ、なんどもロシヤ人が、シベリヤからきたり、オランダの船が北海道のまわりをたんけんしたりしていました。そのため、幕府は、北海道を守らなければならないと考えました。近藤重蔵、最上徳内、松浦武四郎という人たちが、いくども北海道を調べ、北海道をおさめるためには、石狩川のふきんが大切な場所であると考え、このことを幕府につたえていました。それでその後『在住』の場所を決めるときに、当時の役人が、発寒の地をえらんだのです。当時の役人の日記に「サッホロ、アッサフは山のふもとまでよく見えて、このあたりを『在住』の場所によいとほうこくした」とあります。
幕府の在住ぼしゅうに応じて集まった人たちには、身分によって、給料をあたえることにしました。また、移住に必要な仕たく金やりょひなどもあたえました。
このようにして入地した最初の『在住』の人びとは、はじめ、もとの石狩場所の小屋に住んで開こんをはじめました。その年、夏になって、今の稲荷街道の両側に自分たちの家を五けんたてました。その時の材料は、そのころ、手稲星置のさわぎで木材をとる仕事をしていた早山清太郎という人が、きこり五人と三角山からきりだし、発寒川に流して運んだものでした。そのころの発寒川は、大切な通路でもあったわけです。
今の発寒神社にたっている山岡清(ママ)次郎の記念碑は、この最初の『在住』の入地を記念して、あとになってたてたものです。
『在住』の人びとは、移住の前は、本州の下級武士でした。その人たちは、それぞれ、人夫としてはたらかせるため、なん人かの農民をいっしょにつれてきていました。それらの農民たちの名前は、記録にはのこっていませんが、その人たちもわすれてはならない開拓者なのです。発寒在住のひとり永田休蔵は、農民十一人もつれてきていました。
永田休蔵は、『在住』の中でも、とくに開たくに熱心でしたが、移住した年の秋十一月、大竹慎十郎と石狩からの帰り、海岸できゅうに強くなった風のため、冬の海にのまれて死んでしまいました。大竹慎十郎は、ひどいとうしょうになり、やっと帰りました。これは、発寒開たくのころのかなしいできごとのひとつです。発寒小学校の前の永田休蔵の碑は、大正十四年に、あとで入地した発寒屯田兵の三十四名の人たちがたてたものです。永田休蔵のはかは、発寒川のほとりにたてられました。

2 最初の米づくり

早山清太郎という人は、福島県の農家の三男でしたが、北海道にわたってから、いろいろな仕事をしたあと、漁場の番人になっていました。そのころ、星置に入地する『在住』三戸分の木材をとる仕事があったので、その仕事もしました。つぎに、発寒『在住』のための木材をきりだしました。その代金を受けとりに行って、手稲星置に入地した中川金之助という人に会い作物の話をしたのがきっかけで、この地にきっと米ができるだろうと考えました。さっそく、安政四年(一八五七年)七月、家族二人と、ケネウシペツ川(今の十二軒川)のふちに小屋をつくって移りました。すぐたねもみを役所からもらいうけ、やく三反(グランドの広さのはんぶん)の田をつくり、つぎの年、これをためしにうえたところ、みごとに成功し、玄米五斗九升(石油かん六こ)とれました。これが、石狩平野で最初にできた米でした。(中川金之助も、同じ安政五年に稲をためしにうえてみたらしい記録がのこっています。)このことは、『在住』として移住し、苦しい開たくをしていた多くの人びとに、強い勇気をあたえました。その後、清太郎は、琴似川とフシコ札幌川とが合う所が土地が良く、水のべんもよいと考えてうつり住みました。そして、水田をつくり今の篠路村のもとをつくりました。
また、山岡精次郎も一八六一(文久元年)年、清太郎が、米作りに成功してから三年後発寒の地でも米作りをためしたことが記録にのこっています。しかし、水がつかったためか、米ができませんでした。また、その年の秋、発寒川がはんらんし、水田が流されてしまったということです。
このように、自分たちの手で、この地に米を作ることが北海道に最初に移住した人たちのゆめであったのです。北海道を開たくした人たちのむねのそこには、どうしたら本州と同じように米を作ることができるのか、いつか、これをじつげんしようというそゆめがあったのです。そのゆめをじつげんする第一歩が、この発寒の地ではじまっていたのでした。のちに、石狩平野の水田開発の父といわれた中山久造もそれをうけついだのです。

3 在住の人びとのくらし

発寒在住が入地したつぎの年、松浦武四郎が、銭函から山道を通り、二度目に発寒にやってきました。その時の日記には、
「−六月十八日、馬をやとい、ゼニバコを出発、−ホシオキ川がオタルナイと石狩のさかいである。ここに、きょ年の秋に入地した永嶋、中嶋、中川(金之助のこと)葛山さんなどの畑がたくさん見える。土人(アイヌ人)が、大根・ソバ・ヒエなどよくできるといっていた。
とありますから発寒でも同じような作物を作っていたと考えられます。
「ホンハッシャフの川巾は五・六間(やく十メートル)、ここにまた『在住』の大谷、永田、弓気多、山田、秋場たちが住んでいる。わたしが、きょ年アイヌの酋長コモタン家にとまったときからみると大へんあたりのようすがちがっていた。ハッチャブの川巾は七・八間(十四・五メートル)あり、木の橋がかけてあった。ここまでは、小舟で川をのぼってくることができる。」
とも書いてあります。
しかし、このような作物だけではくらしていけないので、石狩川まで行って魚をとってくらしをたてていたようです。そのころの発寒川は、種川として鮭をとることをきんじられていました。
明治元年、清次郎は江戸へ帰りましたが『在住』としてのこっていたのはわずか五戸でした。しかも、最初の人は、秋山鉄三郎という人だけでした。のこりの四戸は、あとで移住した人であることを考えると、開たくがうまくいかなかったのか、わずか数年間でほとんど江戸に帰ったり、道南の方に移ってしまったようです。

三、屯田兵と発寒兵村

1 屯田兵制度

江戸幕府がたおれ、新しい明治の世の中にかわりました。政府はエゾ島をいっしょうけんめいに開き、外国や国の中のあらそいから守らなければならないと考えました。そのため、明治二年に開拓所をおき、エゾ島を北海道とあらためました。
明治三年に開拓使次官としてきた黒田清隆が中心となり、明治六年、屯田兵制度をつくりました。
屯田兵制度とは、ふだんはくわをもって開拓したり、兵隊の訓練をうけたりします。そして、なにかあらそいがおこると兵隊として出動するのです。
北海道に屯田兵制度ができたのは、明治七年の十月です。そして、明治八年五月琴似に百九十八戸九百六十五人が入りました。北海道に入った屯田兵の一番はじめです。
明治九年五月には、札幌の山鼻に二百四十戸、そして発寒に三十二戸の屯田兵が入りました。山岡清次郎が安政四年に『在住』として発寒に移住してから二十年たっていました。永田休蔵の碑文には、明治九年五月二十一日に三十二戸入り、そのあとすぐ二戸入ったと書かれています。
屯田兵にあたえられたもの
屯田兵は、非常に手あつく保護され、次のようなものがあたえられたり、かしだされました。

・あたえられたもの〜支度料、旅費日当、荷物の運賃、家屋、家具、夜具、農具、種子
・三年間あたえられたもの〜扶助米(お米)塩菜料(副食費)など
・兵員にあたえらたもの〜軍服、軍帽、背のう(かばん)、毛布、服装品など
・兵員にかしだされたもの〜小銃、たまなど

発寒に屯田兵として入地した人たちは、以上のような人です。この人たちは、入地して一週間、『発寒在住』で入地していた斉藤久佐衛門の世話になりました。
発寒屯田は、くるしいことにもまけず、発寒を開たくしていきましたが、兵隊として戦争にいったのは、明治十年に九州でおきた西南の役ぐらいでした。ほとんどは、開たくの仕事と軍事訓練だけでした。
その後、北海道の開たくもすすみ、開たく希望者もふえてきたことと、北海道にも軍隊のそしきができたので、屯田兵制度も必要なくなり、明治三十七年にはいしになりました。

2 屯田兵の生活とそのころのようす

①屯田兵の生活
一日の生活 夏は四時におき、六時から仕事をはじめ、夕方の六時に仕事をおえました。冬は、朝五時におき、七時に仕事をはじめ、夕方の五時におわりました。
食べ物 そのころの屯田兵や住民の食べ物は、主食はよいところでは米で、米と麦半はんが普通でした。生活がくるしいところでは、麦、あわ、そばこ、とうもろこし、じゃがいもなどが主食でした。
服装 屯田兵の服装は、今からみるとちょっとかわった感じがします。きものに白の兵子帯、それにはかまをつけ、大刀をさしていました。
開たくにはいったころは、そのままの服装で軍事訓練をしたり、開たくをしたりしました。あとになって軍服などがきめられました。はきものは、わらじをはき、冬にはつまごをはきました。また、今のように明るい電気がありませんでしたので、あぶらをもやすランプで生活をしていました。
屯田兵の家族たちも、畑やくだものをつくったり、蚕をかったりしました。また、作物がとれなかったときのために、扶助米などの二割をためたということです。
②農業
明治になって開拓使がおかれました。この開拓使は、北海道を開くためのいろいろな仕事をするところで、まず第一に畑をふやすことに力をいれました。そこで、どんなものをうえたらよいのか調べるため、古くから開かれている琴似・発寒の地でたしかめることにしました。発寒は農業の上でとても大切な場所であったのです。
『在住』のころ 屯田兵がはいる前は、発寒には家が二十戸ばかりありましたが、畑も少なく、農業だけでは食べていけませんでした。それで、発寒川の魚をとったり、山で木をきったりしていました。やがて、開拓使で農作物を買いあげるようになったので、人びとはすすんで農業をするようになりました。農作物は、おもに大豆、麦、あわなどでしたが、あとでやさいやじゃがいもも作るようになりました。
屯田兵がはいってから 明治九年に屯田兵が入地して、北海道のまもりをしながら農業をすすめていったので、農地も広くなり、いろいろなものがつくられるようになりました。とくに養蚕がさかんでした。そのほか農家では、すいか・ゆり・ぶどうなどのくだものなども作るようになりました。またビール会社もできましたので、大麦もたくさんつくられるようになりました。
明治二十年になって、札幌に亜麻会社、製糖会社ができましたので、亜麻、ビートが多く作られるようになりました。
最初に入地したころは、農地も少なくたいへんでしたが、このころになって農地も広くもらえるようになりました。
稲は発寒川の近くで、あまり多くはありませんが、作られていたようです。
さいがい 明治二十四年、明治三十四年と十年おきにおそった夜盗虫(よとうちゅう)という虫が、作物の芽や茎をみんな食べあらしたことがありました。
明治三十一年、明治三十七年には大雨があり、発寒川がはんらんし、作物が全部流されてしまいました。
また、カラスやバッタのがいも大へんでした。明治十年には、カラスを一羽とると四銭(今の八十円ぐらい)のお金がもらえました。しかし、そのご、バッタがふえ、農作物を食べあらしたとき、カラスがこのバッタを食べてくれるので役にたつということもありました。
オオカミとクマのがいもありました。これも賞金つきでとられたようです。オオカミが七円(今の一万四千円ぐらい)でクマが五円(一万円ぐらい)でした。クマがオオカミよりやすいのはクマは毛皮などが売れてお金になったからだそうです。
③学校
発寒は、安政年間に、幕府のさむらい、山岡清次郎たちが開たくしていました。こどもたちは、箱館奉行からおくられていた本で勉強を教えられていました。
明治になってからは、さむらいについて入地した農家や炭焼き、駄馬使いが数戸しかなく、教育などはほとんど考えられなかったようです。
明治九年に屯田兵が入ったあとは、琴似にできた小学校にかよっていました。
④交通・通信
むかしは、交通といえば、発寒川の川岸をつたって歩くか、鹿のふみわけ道を利用するか、あるいは、石狩川から発寒川へと丸木舟で川を上下するかの三つの方法にかぎられていました。
道路 徳川幕府がエゾの開たくを考えるようになってから、まず道路をつくる仕事に手がつけられました。そして、安政四年には、札幌越という道路ができあがり、銭函ー千才間に馬で運動が行なわれるようになりました。しかし、あまりよい道でないため、やはり生活には、発寒川を中心とした交通が大切にされていました。
やがて、明治四年に開拓使が札幌に移ってから、札幌・小樽間に道路を計画しました。そして、明治十二年にようやくできあがりました。この新しい道路が今の札樽国道のはじまりです。冬の交通には、雪車が大切な役目をはたしていました。
郵便 明治五年、札幌郵便局がひらかれ、手紙がくると、町の集会所や村役場などにとどけられ、そこから小使いさんが本人の所へとどけるというようになっていました。
郵便物は、函館から舟で室蘭にわたり、室蘭街道を通って札幌へはこばれます。小樽へは、札幌から毎月六回ずつおくられ、根室方面へは、札幌から苫小牧にでて、日高をまわって海岸づたいにおくられていました。
鉄道 明治十三年、札幌と手宮の間に、日本で三番目の鉄道ができ、その後明治十五年に幌内まで延びました。この鉄道は、幌内鉄道と名づけられ、幌内の石炭をはこぶことと、石狩平野を開たくするのがもくてきでした。
この鉄道がしかれるまでには、いろいろとむずかしいことがありました。はりうす海岸の漁をする人びとからは、そんなものを通されては、にしんがこなくなると大反対されました。それで、汽笛をならさずに、鐘をならして走ることにしてようやく通ることができるようになりました。
電信 明治七年に、札幌電信局がつくられました。そして函館・千才・札幌・小樽間の電信がおこなわれるようになりました。そのころ、電信に対して、いろいろなめいしんがありました。とくに、電線の下を通るときは、けがらわしいものとして、頭にせんすをのっけたり、電線にきたない物をかけるというようなことがありました。
⑤工業
屯田兵が開たくに入ったときに、養蚕をすすめましたので、紡績(糸をつくる)がさかんでしたが、気こうが合わないため生産が少なく、また、ねだんも安いため、あまりもうけがありませんでした。しかし、亜麻はよくとれましたので、明治二十三年に琴似に製麻会社が建てられました。この工場は明治三十三年に焼けましたが、明治四十一年に帝国製麻会社の琴似亜麻工場となりました。
その他に、酒・味そ・正油・マッチの軸木などが作られていました。
⑥商業
明治九年、琴似本町の五番通りに小泉衛守という人が、米・味そ・正油・酒・食料品・日用ざっかをおいて商ばいをはじめました。発寒では、明治十一年に四戸喜太郎という人が同じような店を開き、明治二十二年ごろまでつづいたといわれています。

四戸喜太郎のあとの商店
 明治二十年ごろ 横尾直四郎
 明治三十五年ごろ 北川国松
 明治四十五年ごろ 下山駒吉

3 発寒兵村
屯田兵のはいる家や土地は、だいたい一ヶ所にかたまっていました。これを兵村といっていました。

琴似兵村 琴似屯田兵村は、まん中に十間(一八メートル)幅の道路をつくり、両側に平行して道路をつくりました。そして、これとこうさして東西に道路をつくり、その間に家を十けんずつ建てました。
琴似屯田兵村は、たくさんの家をたてたため、あとになって、道路がせまくてこまりました。

発寒兵村 琴似兵村のつくり方が失敗したので、発寒屯田兵村をつくるときは、ケプロンの意見をきいて、少し広くつくりました。しかし、道路のすぐそばに家をたてたので、今は稲荷街道がせまくてこまっています。

家と中のようす 最初は、寒さのことを考えて、かべは白土かべにするとか、また軟石をつんでたてるとか考えられました。けっきょく、さいごにできあがったのは、木造で屋根うらのみえるそまつな家でした。
この時、政府が、石をつんだ、じょうぶであたたかい家をたててあげたら、屯田兵たちはどんなに生活がらくになったことでしょう。
発寒屯田兵のはいった家は、一けんぶんが二百七円七十銭(今の四十二万円ぐらい)でできたのです。そのころのお米は、一俵五円(今の一万円)ぐらいでした。

土地の広さ はじめ、琴似屯田が入地したころは、宅地百五坪(発寒屯田は二百坪−教室十一くらい)をもらい、家からはなれたところに共同でつかう農地がありました。しかし、自分の土地でないことと、あまり広い農地でなかったため、生産があがりませんでした。それで、養蚕に力をいれるため、桑畑五百坪(グランドの三分の一ぐらい)と、そのあと農地五千坪(グランドの三倍ぐらい)があたえられました。さらにたがやすことのできる人には、五千坪あたえられました。しかし、じっさいに自分の土地としてもらった広さは、ふつうの人で四千三百坪ぐらいでした。
明治二十三年には、一万五千坪が必要であることがわかり、それだけの広さをもらえるようになり、生活が少しよくなりました。

img168.jpg松浦武四郎の地図img210.jpgむかしの札樽国道img211.jpg発寒屯田兵村(左)と当時の発寒(右)