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郷土史 「はっさむ」

発寒小学校郷土史編集委員会/昭和44年10月1日発行
発行者/札幌市立発寒小学校、開校五十周年記念協賛会



本文

四、村の発展

1 札幌の町づくり


琴似や、発寒がどんどん発展していくと同時に、札幌のまちも、ものすごい、いきおいで開けていきました。
農業は、よいものをたくさんそだてて出され、また、工業もたくさんの工場ができました。そのころは、たいてい、かんえい工場で開拓やふだん使うものを作っていました。
ビール工場も、明治九年にできました。発寒屯田の人たちも、時にはきっと、このビールをのんで、働いたことでしょう。
アメリカからは、ケプロンという人を招いて、いろいろ指導してもらいました。その中でも、まちの発展には道路が一ばんたいせつであると考えて、道路をつくることに力を入れました。そのうちに鉄道がつきました。明治十三年には、札幌と手宮の間、明治十五年には幌内と手宮の間に汽車が走り、それとともに、まちもりっぱになっていきました。
発寒の土地にレールがしかれ、黒い煙をはいて走る汽車がくると、始めのころは仕事をする手をとめてながめました。
明治二年には、札幌のまちを、ごばんの目のように区切って道路を作りました。
島判官が苦労して札幌の町づくりをはじめ、次の岩村判官が来て、島判官の後の仕事をしました。よりいっそう力を入れて、札幌の建設にのりだしたのは、明治四年十一月で、明治五年五月には、開拓本庁が仕事をはじめ、六月には正式に北海道の都となったのです。
岩村判官は家を建てたい人に百円(約十二万円)のお金をかしたのですが、借りた人は草ぶき小屋を建てて、あとの金は使ってしまうので、おこった判官は、草ぶきの家には火をつけて焼き払ったということです。これを御用火事といいました。
一時、北海道を去った岩村判官は、後に三県(札幌県・函館県・根室県)が廃止され、北海道庁が札幌におかれると、すぐ、その初代長官に任命されたのです。今の道庁・庁舎も、岩村長官の時に建てたものです。
屯田兵が入る前に、山岡精次郎などが移ってきたころは、おもに「そば」「アワ」「麦」などを作っていたようです。琴似の方はばれいしょも、そうとう作っていたらしく、そのころの記録が残っています。屯田兵が作る大麦は、ビールの原料になりました。札幌附近には、三十位の工場ができました。それは開たくに使うものとか、また、屯田兵の畑でできた農作物を本州まで運ばなくても、北海道で加工するために工場が作られました。そのころ、ビール一本が十二銭五厘で工場から商人に売られたといわれますから、屯田兵たちの買うのは、十四銭か、十五銭ぐらいだったのでしょう。

2 すすむ開たく


明治の初めの十二、三年ころまでは、アサ・アマ・蚕などの生産がおもなものでした。アサ、アマをさらした池の跡が、今も武田製薬の土地の中にあります。そのころ、シカが多く、雑こくを作るのに、鹿囲いといって木の枝を立てて囲いをし、シカの大群に食い荒らされるのを防ぐ方法がとられました。そのうちに農作物はしだいに、ビール麦、裸麦、豆、黍(きび)カボチャ、ニンジン、ばれいしょがおもで、ウリなども作られるように変っていきました。
屯田兵が発寒に入地して十年たった明治十七年には、発寒にはどの位の農作物ができたか資料でみますと、次のようになっています。
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大麦ー三十五石二。ソバ−二十三石九、粟(アワ)ー四十一石五。大豆ー百七十九石七。小豆ー三十一石六。キビー三百二石六。麻ー七百二十三貫。蚕のまゆー百十五貫三十七匁。そのほか、イモ、トウモロコシ、大根、野菜、果樹は、明治九年にナシ四百四本、リンゴ百五十二本、モモ五十一本、スモモ二十五本。アンズ二十五本、サクランボ二十五本が植えられ、また続いて、ナシ三百本、ほかの果樹、それぞれ二十五本ずつ配られ、三千五百本位植えられた。
くだものは、あまり成功しなかったようです。そのほかにもニワトリもそうとう養っていたようです。
明治二年に島判官が札幌の町をつくるために来た時には、札幌よりも発寒の方がひらけていました。発寒には、鈴木熊吉、笹布源吉、青木力蔵、轟清吉、八重樫直助の他、数戸の農民や炭焼き、それにアイヌ人の家が七戸、合わせて二十軒くらいの家がありました。
そこで、ここに開拓使の派出所をおいて、アイヌの世話や、農業の指導にあたりました。
開拓使では、人口の集まっている所は、五軒を一組として、その組が五組あると、そこに村長(むらおさ)をおきました。明治四年に、札幌の山鼻から四十四戸、琴似に移って来たので、琴似組頭と百姓代という責任者が開拓使から任命されました。
明治五年ころには、戸長、副戸長という村の役人ができました。副戸長は、部落ごとにおかれたようで、発寒にも副戸長がおかれたのですが、発寒村の最初の副戸長はだれであったか、はっきりしません。とにかく、発寒村は明治五年までは、手稲村をもふくめた広い地域で、明治四年には戸数四十七戸でした。広いため明治五年二月十六日付で発寒村と手稲村とにわかれたのです。明治十三年に、村の区制や制度が変り、琴似村、発寒村、上手稲村、下手稲村の四村が一つの区画になって一人の戸長がおかれることになりました。ちょうど、北海道は札幌県、函館県、根室県の、三つの県にわかれた時代です。
明治十九年、琴似と発寒には五百戸以上も家がたったので役場を建てることになりました。
明治三十五年になると手稲に郵便局ができて、貯金と郵便の仕事をしていました。一日一回でしたが、手稲から集配員がまわってくるようになりました。
発寒村をふくめた琴似村は、明治三十九年、篠路兵村を入れて二級町村の琴似村となりました。この年の戸数は、八百十九戸、人口は、六千四十四人でした。初代村長は、鈴木寅吉という人です。この人は、わずか一年五ケ月村長をやっただけでしたが、学校を大きくすることや、そのほか村のために、一生けんめいつくしました。

②大正時代のくらし
この時代になると、人びとの生活のようすも大分変り、村も発展してきました。
大正元年には、電信電話の取りあつかいが、琴似局ではじまりました。はじめは、まだ受け付けだけをやっていたのですが、大正五年になると、電報の配達もされるようになりました。
いろいろな職業にたずさわる人がでてきました。雑貨、衣料、食料、などの製造販売などをする人たち、それにつれて工場も建てられ、そこではたらく労働者、それから、役所ではたらく人たちもふえてきました。
それから、ストーブがついたこと、ガラスが使われるようになったこと、わら靴からゴム靴に変ったことなど、生活も大きく変わってきました。
農家の人たちはよいくらしをするようになったのですが、一般の人たちは、物の値段があがったりして、生活はあまりらくではありませんでした。
商店も札幌の商人の売りこみがはげしくなり、かなり苦しくなったのですが、大正の末ころには、食料雑貨店から自転車屋とか米屋とか食料品店などのように専門店ができました。
明治四十年から大正三年まで七年六か月間、二代目の村長に下川重島という人がなりました。この人は、札幌区制実施の時に、琴似と札幌との境界を琴似川とした結果、新琴似の一部五十万坪が札幌区に編入されてあったので、それを返してもらう運動をし、琴似にもどしました。三代目は、宮崎建三郎という人で、大正三年から大正六年四月まで職についていました。その時、役場をどこに建てるかで三兵村(琴似・新琴似・篠路)の間でもめました。そのため、宮崎村長は、永山村に去って行き、四代目村長に清水涼という人がなりました。
大正十一年には、工業試験場が建ちました。おもに醸造、陶磁器などの試験をし、その後は、化学工業・醗酵工業・窯業などの仕事をして、工業の発展に役立ちました。
大正十二年には、一級町村になり、初代村長には清水さんがそのまま村長になりました。この年の戸数は千三十七戸、人口は、六千四百六十二人でした。
この年には、発寒小学校の前庭のはし(もとの発寒神社境内)に、発寒の土地を開くのに努力した永田休蔵碑が、寺田千太郎、下山勝美、南部林次郎さんなど、発寒屯田兵三十四名の人たちの力で建てられました。
また、消防団ができ「発寒自警団」として、約三十名、学校の附近に火の見やぐらを建て、とび、ズック、バケツ、ハンテン、団名入りのちょうちんを用意しました。しかs、木製の手押しポンプも、昭和九年までありませんでした。
大正十四年には、北大農場のうらにあった農業試験場が、琴似に移りました。そのため、近くにある発寒は、農業をする上に、大変便利になりました。中央発寒にある高いポプラに囲まれたリンゴ園(今は作られていません)は、この農業試験場のリンゴ園でした。ここで、病害、栽培技術などの研究をし、おかげで、発寒でもリンゴを栽培する農家が増えました。
また、円山から移住した内山安治さんの家では、温床で、そ菜づくりをはじめました。
琴似町の「えんばく」の作付面積は、大正十四年で、千百三十六町歩にもなっています。発寒も、その影響をうけて、「えんばく」「ビール麦」「菜豆」などが、多く作られるようになりました。
農業はだんだん機械化され、「播種器」「足踏脱穀機」「千歯」「プラオ」などが使われるようになり、小型の発動機も使われるようになってきました。
その上、それまでは、だれもがかえりみなかった泥炭地を放牧地として牛をかうようになり、らく農経営もはじめられました。
このように、大正時代の農業は大きく発展し、稲、雑こく、らく農、果樹とさまざまなものがつくられるようになったのです。

③昭和の時代になって
昭和元年にはランプにかわって、初めて電燈がつけられましたが、最初の電線は、琴似から長栄橋をとおってつけられました。学校に電燈がついたのは昭和三年でした。
琴似村の人口は、昭和五年に千四百四十七戸一万千七百三十九人になっています。
この年は米の豊作で物価が下がり、六、七、九、十年と冷害・水害がつづいて、農家の生活はこまった時代でした。しかし、人びとの努力によって農業に機械をとり入れてしだいに生産をあげてきました。昭和三年ごろには、おもにえん麦・米・ぼく草などが作られていました。ぼくちくの方もでい炭地を使って行なわれていましたが、戦争が始まるころになると、発寒川のあたりのせまい土地に移ったりして、しだいにおとろえていきました。
また、昭和八年には、会社が今の札幌酒精工業株式会社となり、アルコール・合成酒・しょうちゅう・雑酒の生産をしました。
昭和十二年には、北海製紙(小樽、大正七年創業)が札幌製紙となって、パルプを原料にして、クラフト紙を作るようになりました。
大正の終わりごろに新しくたてられた工業試験場にもえいきょうされ、さらに、小樽などとの交通が便利なこと、工場をたてる土地が得られやすいことなどが、発寒が工場地帯として、発展する原因となったものと考えられます。
こうした中で、日本の国は戦争に入っていき、男の人たちは戦争につれて行かれ人手が足りなくなる一方、生活に必要な食料・衣料などは、自由に買えなくなりました。
戦争がはげしくなるにつれ、女の人や、学生たちが農家の手つだいや工場ではたらくようになります。
昭和十七年二月十一日い琴似町になり、清水涼村長がそのまま町長になりました。二代目に安孫子孝次さん、三代目斎藤正志さん、四代目河本浦助さん、五代目曾我初観さんでした。
明治四十二年に作られた産業組合は、昭和十九年に琴似町農業会となります。

④札幌市になるまで
昭和二十年、いよいよ戦争も苦しくなってきて、八月十五日に終わりました。
海外からの引あげ者を収容するために、昭和二十二年には、南発寒に住宅がたちました。その後、毎年のように、住宅がたてられ、発寒にも三百世帯の人が住むようになりました。
昭和二十三年には、新しい制度の自治体けいさつもでき、ちゅうざい所もおかれました。
このころになると、農業の仕方も落ち着き、らく農は遠くの方に移り、発寒の中心地帯はおもに、キャベツ・白さい・きゅうり・なすびなどが一つの畑で二回もとれるようになりました。
機械も以前よりもっと使われ、新しい肥料や農薬もできて冷害や害虫も防げるようになりました。
琴似農業会は、昭和二十三年に農業協同組合となり、おたがいに助け合いながら農業をすすめていくことになりました。
昭和三十年、札幌市と合併したころから、工場の排水によって稲はできなくなり、果樹は、住宅が近くてくすりをまくことができなくなり、また、人手も足りないので、農業をやる人は、しだいに少なくなってきました。ぼくちくも、やめる人がふえてきました。今では、農業をつづける人はほとんどなく、町へ売りに出すそ菜や園芸作物をつくっているていどになりました。

札幌酒精 畑地が住宅地にようすなっていくようす