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郷土史 「はっさむ」

発寒小学校郷土史編集委員会/昭和44年10月1日発行
発行者/札幌市立発寒小学校、開校五十周年記念協賛会



本文

五、生まれ変わる発寒

1 琴似町札幌市に合併


1 琴似町札幌市に合併
私どもは、終戦後の十年間、復興をめざしていろいろな苦労にたえながら生活してきましたが、昭和三十年ころになって、やっと生活が戦前なみにもどってきました。
札幌市は、おもな役所や公共機関がほとんど出そろい、又小樽市や函館市にかわって、商業の中心地にもなってきました。このため、札幌市にはどんどん人びとが集まって生活をするようになりました。これが市内だけでなく、札幌市の周辺にもたくさん集まり、昼は札幌に出て働き、夜は周辺の自分の家に帰るという人が非常に多くなり、又買物や学校に通う人たちも多く、すべての面で札幌市にたよっていくことが多くなり、札幌市と、その周辺の町の人びとの生活は深いかかわりを持つようになってきました。
札幌市では、昭和十六年の円山町の合併から始まって次つぎとまわりの町村と合併してきました。昭和三十年、わたしたちの住んでいる琴似町も、札幌市と合併することになり札幌市琴似町発寒となりました。その当時、琴似町の人口は約三万でした。

市域のうつりかわり
明治2年 開拓使がおかれ島判官が札幌にきた
明治19年 北海道庁が札幌におかれた
 中島公園の一部を編入
明治43年 豊平町・白石村・札幌村・藻岩村の一部を編入。
 また札幌区の一部を琴似町に分割
昭和9年 札幌市の一部を編入
昭和16年 円山町を合併
昭和25年 札幌村の一部を編入
 白石村を合併
昭和26年 広島村の一部を編入
昭和30年 琴似町、篠路村、札幌村を合併
 江別市と一部交換分合
昭和36年 豊平町を合併
昭和42年 手稲町を合併

2 ふえる住宅


発寒は、当時土地が安く手に入り、しかも広いため、札幌市の郊外地として、住宅街にかわりつつありました。土地の分譲もどんどん行われ、戸数の増加はおどろくほどでした。とくに札幌市に合併された昭和三十年から表にあるように急にふえてきました。
このように発寒の戸数は昭和三十年から三年間で約二倍になりました。昭和二十三年頃は、発寒の戸数は約三百戸、人口は千七百人くらいでいしたので、十年間で約三倍になったわけです。
その後、昭和二十七年ころからそのふえ方がますますはげしくなり、昭和三十五年ころまでは国道五号線を通る車が、発寒のいたる所からよく見えたのですが、三十七年ころになると、家がたちならび、その屋根が重なってすっかり見えなくなってしまいました。
発寒団地 札幌新道よりのぞむそのため札幌市では以前から発寒に市営住宅の建設を急いでおりましたが、昭和四十六年までに新しく五百七十六戸ができ上り、これまでの分とあわせて総数八百四十八戸となって大きな発寒団地ができました。
発寒は、長い間農村として発展してきたのですが、このように急に住宅がふえてくると、住民の教育、道路、河川、上下水道、ゴミ処理、街灯、通信などあらゆる方面に困った問題ができてきました。
そこでこれらの問題を解決し、住民がみんな協力してしあわせな生活をすることができるように、各町内会が集まって、昭和三十八年に発寒連合町内会ができました。
今、連合町内会に参加している町内会は次の通りです。
国鉄函館本線を境にして、国道五号線よりの方面、線路上に清水橋・南・川沿・せせらぎ・泉・北町・三条・第一・旭・親和・中央・協栄・西発寒・木工団地があり、反対側の線路下には、春日・宮内・栄・稲荷・文京・柏・五月町・吉原・天狗・鉄工団地・事業団(発寒)・事業団(こと似)・市営住宅・北発寒などです。
学校ではこの町内会をもとにして、郊外子供会を各分団にわけていますが、人数が多くなって、わかれた分団もあります。
また、町の区かく整理も行なわれ、鉄道以南は、条丁目制がしかれるようになり、「発寒何条何丁目」となって、発寒の町もしだいに整ってきました。

3 多くなった商店


発寒にどんどん住宅がたちはじめると、それにつれて商店の数もふえはじめました。昭和二十八年には、二軒しかなかった商店も、三十二年には、二十数軒になりました。その後ますますふえ続け、国道五号線から発寒に入るバス通りは、商店が軒をつらねるようになりました。
ほとんどの店が新しい店で、食料品や日用品を売る小売り店が多く、また、スーパーマーケットもあちこちにできました。
軒をつらねる商店(発寒稲荷街道)コープストア(スーパーマーケット)ダイヤデパート
このように発寒地区は急に発展してきましたので、昭和四十五年に、路線式商業地区の指定を受けました。これは、風俗営業や大きな工場、倉庫業は、できませんが、住民に直接便利となる小売業やサービス業などを営業することができるというものです。
なお発寒商工振興会は昭和三十二年に、北発寒商工会は昭和四十六年にできました。

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4 交通と道路


簡易舗装のバス通り(稲山通り)昭和三十二年の五月に、発寒にはじめて市営バスが入り、発寒小学校まで一日四往復するようになりました。その後、人口が急にふえてきたことと、住民のねがいが多くなったことで路線バスがふえ、発寒線は四方向、工業団地線四方向、桑園発寒線四方向、琴似線・山の手線各一方向、国鉄バスは、札幌駅から木工団地を通って手稲駅前まで一系統通るようになり、大へん便利になってきました。
しかし、人口がふえ、交通量がふえてくると、今までの道路ではせまくなってきました。それで道路のはじにあるみぞをうめたてて歩道にしたり、歩道と車道との間にさくをつけたりしています。信号機もつけられました。また、発寒バス通り拡幅既成会をつくり、これからのバス通りについて検討しています。
発寒の道路は完全舗装道路が少なく、簡易舗装道路で文化的な生活をするにふさわしい近代道路は、まだほんの一部しかありません。馬車や馬ソリ時代の三・六メートル巾や、四・五メートル巾の道がたくさん残ってます。それでこれらの道路をよくしていくことが、これからの発寒の大きな課題になっています。
しかし一方、昭和四十七年に札幌で開かれた国際冬季オリンピックを目標にして、昭和四十六年には、発寒を通る札幌新道が完成しました。
札幌新道は、北海道ではじめての高速道路で、札幌と小樽を結び、しょうらいは北海道の主な都市をつなぐ高速道路になります。今はさしあたって四車線ですが、しょうらいは八車線になる予定です。
また、発寒とひばりが丘を結ぶ地下鉄道が工事をはじめ、それができ上がるといっそう発展が期待されます。
札幌市では六ヶ年計画で道路の舗装や改良をしています。その中で、発寒の道路は、麻生鉄工団地線(国道五号線から鉄工団地を通り新琴似から麻生まで)道道下手稲札幌線(琴似工業高校の横を通る)鉄工団地線(競馬場前通りを延長して鉄工団地と結ぶ路線)が計画されています。
札幌新道 発寒高架橋札幌新道 発寒高架橋

5 発寒の学校


発寒小学校は大正十一年にできました。戦後子どもの数が急にふえましたので、昭和四十二年に発寒西小学校、昭和四十五年に発寒南小学校ができました。
発寒中学校は昭和四十二年にできました。それによって鉄道より西の生徒がみなこの学校に通うようになり、鉄道より東の生徒は八軒中学校に通うようになりました。
小学校へ入る前の幼児のための教育機関はまだそれ程進んでいませんが、今のところ保育園として、西発寒保育園、発寒西伝導協会附属のぞみ園、ひかり保育園があり、幼稚園としては、発寒幼稚園、あずま幼稚園があります。
北海道立琴似工業高等学校は、昭和三十八年に建てられ、昭和四十一年四月から定時制もあわせておかれるようになりました。

6 公共施設


わたしたちの住んでいる発寒の社会的なようすをとらえるために、発寒にある官公署や公共団体をとりまとめたのが次の表です。

7 工業団地


木工団地日本の工業の発展の中で大きなしくみをもった企業(事業をする会社)はりっぱになりましたが、中小企業は、その資本(もとでになるお金)が少なく、設備もふじゅう分な会社が多く、北海道ではとくにそれがひどいので、本州の大きな企業に対抗することができませんでした。そこで、これらの中小企業者が集まって技術を向上させ、古くなった製造設備を新しく、合同で出資(お金をだす)したりして、自立をめざし、また、札幌市が長い間考えてきた消費都市(しなものをつかう町)から生産都市(しなものをつくる町)になるための手だてとして工業団地がつくられました。これは日本で、はじめでした。この工業団地は、三十六年にできた木工団地と、一年おくれでできた鉄工団地と二つからなっています。
木工団地木工団地は三年計画ではじめられましたが、ここへ移りすんだ企業は、札幌建具製造組合と札幌家具協同組合から選ばれた工場で、協同組合札幌木工センターを結成ししました。
はじめの生産額は約七億円でしたが、昭和四十一年には二十七億円となり、札幌市の消費量(つかう量)の四割をまかなうまでに発展しました。
鉄工団地は木工団地の隣りにつくられ、よく年は、札幌鉄工団地関連事業協同組合(かんけいしたしごとをみんなでやる)ができました。
この鉄工団地は、金属機械の各工業をさかんにするため、工場を生産する機械の種類別にして建て、中心工場をおいて仕事を専門にできるようにし、よい品物をたくさん作るようにすることがねらいでつくられました。このため昭和四十年には事業内訓練所もでき、この仕事をする人が、いっそうよいしごとをすることができるように教育もしています。
鉄工団地団地内の公園と鉄工団地作業所(右)

8 環境衛生


発寒第1清掃工場札幌市では、昭和二十七年ころから、市民のだすゴミやし尿のあとしまつをどのようにしたらよいかと工夫をかさねてきました。さらに昭和二十五年六月には、全国にさきがけて清掃条例がだされて、積極的にそのしごとにのりだすようになりました。
アキ箱を利用したゴミ箱を作ったり、ドラムかん改造の移動式ゴミ焼器をかしたりしたこともあって、市民の衛生への感心がたかまりました。本格的な機械化が始まったのは昭和二十八年ころからで、イージーローダーつきダンプ車や街路清掃車、洗浄車などができました。
人口の増加や、くらしの向上などによってゴミの量がふえる一方です。そこで市では各所に清掃事務所をつくって、その仕事をとりあつかうことにしました。
札幌市西清掃事務所は昭和四十年三月にできましたが、旧琴似町、旧手稲町とそれに続いている札幌市の一部の区域のゴミ屋し尿を集めています。
集められたゴミは、一部は焼き、残りの大部分は宅地造成や、川の埋めたてに使われてきましたが、だんだんその必要がなくなり、また、衛生面からいってもゴミを埋めたてることはよい方法とはいえません。そこでゴミは焼いてしまうことにして、市では、昭和四十四年から発寒に大がかりな清掃工場の建設をはじめ、四十六年に完成しました。さらに第二、第三の清掃工場を作る計画をたてています。

9 政令指定都市 札幌


札幌市の人口はふえ続け、昭和四十五年には、ついに、百万人をこえてしまいました。昭和四十七年三月一日で、百四万七千五百八十七人です。昭和五十年には百二十三万人、昭和六十五年には百八十万人になると予想されています。
そこで、大きくなった都市が市民に対してゆきとどいた政治ができるように、今まで道がやっていた仕事を大巾に市に移すことにしました。これが政令指定都市で、札幌では昭和四十七年四月からそのしくみに移りました。
札幌市では市制を七区にわけ、区役所を設けて市制の窓口とし、市民にかんけいの深い事務を取りあつかうことにしました。七区とは、中央区、北区、東区、白石区、豊平区、南区、西区で私たちの住んでいる発寒は西区に入ります。

10 これからの発寒


これまで、むかしの発寒、今の発寒をみてきましたがわたしたちの住んでいる発寒はこれからどのようにかわっていくのでしょうか。

①札幌市の町づくり
北海道の人口の二十パーセント近い人口が、札幌市とそのまわりのまちに住んでいます。しかもそのまわりの人口のふえ方は、北海道全体のふえを上回っています。つまり北海道内にすむかなりの人たちが、年々札幌とそのまわりにすまいを移してきているということになります。町が大きくなって広がっていくことはよいことなのですが、それにともなっていろいろな問題がおきてきます。住宅難、通勤難などもできるだけ少なくし、うるおいあるまちづくりをしようと、将来発寒を含む琴似地域を札幌の第二の中心のまち『副都心』として総合的に開発する計画をたてて今しごとをすすめています。
また札幌市では、土地を計画的に利用するため、工業地域、商業地域、文教地域、住宅地域などをきめました。そして、市の中心部は中高層建築、周辺は住宅地にし、商業地域は現在の三倍にして『副都心』のまちづくりをすすめ、市外周辺は、工業団地にするというものです。
②これからの発寒
かって酪農と畑作地帯であった発寒は、今ではすっかり住宅地帯に変わり、なおますます発展を続けています。
発寒の工業団地は、札幌のまちの生産活動に重要な役わりをしめています。琴似八軒から発寒の北方面一帯は工業地帯でとくに国道五号線を中心にしてぐんぐんのびてきています。発寒の工業団地を中心として、一大札樽工業地帯となるのもそう遠くないことでしょう。