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郷土史 「はっさむ」

発寒小学校郷土史編集委員会/昭和44年10月1日発行
発行者/札幌市立発寒小学校、開校五十周年記念協賛会



本文

発寒小学校の五十年
一 発寒に学校ができるまで

1 札幌の開たくと学校


島判官が札幌の町づくりをはじめたのは明治二年ですが、明治四年十月には、資生館という学校ができました。これは今の創成小学校ですが、北海道には、その前から寺子屋のような学校が、函館や松前の方にありました。札幌でも明治三年に開たく使本陣(役人と家族の宿)の中に仮学校というのをつくっていました。
はじめは、さむらいや役人の子どもだけ教えていましたが、明治五年八月に「国民は、みな教育をうけなければならない」ということがきめられてから、一四才までの子どもは、だれでも入れるようになりました。ただし、毎月炭代十五銭(今の三百円くらい)夜学の人は、ほかにランプの油代五銭をはらわなければなりませんでした。
『資生館』ができてから、手稲の時習館(今の手稲東小学校)白石の善俗堂(今の白石小学校)などもできて、明治五年のきまりが出てからは、札幌のあちこちに教育所・夜学校ができました。
そのころの勉強は、漢学(中国の本を読む)英語・数学・習字の四教科くらいで、学校によっていろいろちがっていました。勉強のしかたは、むずかしい本を先生の読む通り暗しょうしておぼえたり、上の方に、たまのふたつあるそろばんを使ったりして、今とはずいぶん変っていました。
学校のきまりは、どこも大へんきびしかったようです。次のようなきまりがあって、まもらなければ罰がくわえられました。
・年上のものをうやまい、幼いものをいたわる。
・教室では、けんかや口論をしてはいけない。
・座席は、成績のよいもの、年上のものを先にする。
できるだけたくさんの子どもを学校に入れるため、六才以上の子どもは、毎月一日と十五日が入学を受けつける日になっていて、六才から九才までは下等小学校に入り、十才から十三才までは上級小学校に入りました。
一年は二学期に分けられていて、一学期は九月一日から二月まで、二学期は三月から七月までです。下等小学校も、上級小学校も、それぞれ八級から一級まであって、学期の終わりに試験をして進級させました。よくできた人はほうびをあげたり、五級から一ぺんに三級にとび級したりさせました。日曜日は休みですが、土曜日はふつうで、水曜日が半日となっていたのはおもしろいです。
発寒は、札幌の中でも、古くから開たくがすすんでいたところですが、開たく者たちは、いつも子どもの教育のことを熱心に考えていました。明治以前には、二・三十戸いたさむらいの子どもたちに、函館奉行所から送られてきた本で漢学を教えていましたが、明治になって、その人たちの多くが本州に帰ってから、琴似に学校ができるまでは、子どもたちの教育は行なわれていなかったようです。

2 琴似小学校


札幌にたくさんできた教育所・夜学校の先生には、そのころ余市にいた会津藩(今の福島県)のさむらいなどがあたりました。琴似には、二十四軒に遠藤祐三郎という人がきて、子ども十二・三人を集めて勉強を教えました。遠藤先生の学校は大へんそまつなもので、『札幌学校』(『資生館』のその後の名前)からかりてきた本を使ったりしていました。以前から発寒に入って、明治になっても本州に帰らないでいたさむらい轟清吉という人が、時々そこへ行って、柔道などをやっていたという記録が残っています。
その後、琴似や発寒にたくさんの屯田兵が入るようになり、明治八年には夜だけの学校だったのが、明治十年には、二階建のりっぱな学校ができました。それが琴似小学校です。発寒の子どもたちも、みんなそこに通いました。明治十一年の三月には、夜学校へきて勉強をするおとなの屯田兵十一名もいれて、百十三人の生徒がいたそうです。屯田兵の子どもからは月三銭、ほかの子どもからは五銭の授業料をとりました。
そのころの学校は、りっぱな屯田兵をつくるための教育を行ない、十才以上の子どもは、午前か午後に三時間くらいの勉強をして、あとは麻をつくったり、かいこをかったりしていました。
その後、なんどかきまりが変って、明治十九年には、尋常小学校と高等小学校という制度になりました。琴似小学校は簡易小学校という三年生までの学校でした。それは明治二十八年まで続きます。明治二十七年からは、入学式・始業式が四月一日と変わり、今のような制度になります。
そのころになると、勉強もいろいろとやるようになって、修身(今の道徳のようなもの)読書、習字、算術(算数)唱歌(音楽)体操(体育)地理・歴史(社会科)図画、物理・博物(理科)などのほかに、農業、商業、工業、女子には裁縫などもありました。テストは大へんむずかしくて、とくに学年末には、大試験といって、役人や先生たちが相談して大へんきびしくやったそうです。
そのころは、村の家の数で学校の大きさや、学校へ通う年数がきめられていました。家の数が百戸にならないところの尋常小学校は二年生、百戸以上二百戸までは三年生、二百戸以上で四年生まででした。四百戸以上になると高等小学校がおけて二年生、六百戸以上になると三年生、千戸以上で四年生までとなっていました。
琴似小学校は、明治二十八年には高等小学校二年までの学校、明治三十九年になって、高等小学校四年まで、の学校となりました。高等科には、新琴似の方からまで、この学校に通いました。
そのころは、みんな綿の入った着物を着て、わらのつまごをはいていましたから、雨の日や、大雪の日などは、学校へ通うのも大へんだったことでしょう。
琴似小学校もだんだん大きくなり、発寒、新琴似の方の人口も多くなったので、明治四十二年に、発寒特別教授所という琴似小学校の分校がつくられることになりました。

3 新川下尋常小学校


発寒特別教授所は、前の新川小学校のところにたてられました。
このあたりは、ひどい泥炭のしめった土地であったs、そのうえ、道路もしっかりつくられていなかったので、春先や雨の日は、どろんこ道を歩いて学校に通わなければなりませんでした。冬になると、吹きさらしで道路もなくなりました。おとうさんやおかあさんたちは、琴似小学校まで通っている子どもたちのために、何とかして、近くに学校をたてたいと考えていましたが、子どもの数が三十人以上になったので学校をたてることにしました。
発寒の子どもたちも通えるようにということで新琴似兵村のずっと発寒のところがえらばれたのです。そうしてできた発寒特別教授所でしたが、発寒からこの学校に通う子どもは少なく、北発寒など一部の子どもたちのほかは、やはり琴似小学校に通っていました。
この学校は、大正六年に新川尋常小学校となって琴似小学校から独立し、昭和三十年に札幌市立新川小学校と名前が変わりました。今は鉄きんコンクリートのりっぱな校舎になっています。
発寒の子どもたちは、この新川下小学校と琴似小学校の両方に分かれて通学するようになったため、いろいろ不便なことも多くなり、村の人たちは、何とか発寒に学校をたてたいと熱心に考えるようになりました。

二 発寒小学校のうつりかわり

1 発寒小学校のたんじょう


発寒小学校最初の校舎発寒小学校をたてようということになったが、学校をどこにたてるかということがなかなかきまらないで困りました。その時、竹沢ナカさんという人が、自分の土地約三千三百平方メートルを学校のために寄贈してくれました。それが今の学校の場所だったのです。
学校をたてる場所がきまったので、三谷源太郎さんなどが一生けんめいになって、創成小学校をたてなおした時の古い材料を払いさげてもらい、さっそく学校の建築にかかりました。
その時の学校は、教室が一つしかない小さなものでしたから、学校の敷地もじゅう分でしたが、学校もだんだん大きくなり、グランドも必要になってくると、敷地がせまくなってきました。そこで、学校のとなりにあった神社の土地や、となり合わせの畑を、神社・地主の人たちの協力でだんだんひろげていきました。
大正十一年十月一日、いよいよ発寒小学校は開校しました。その時の生徒は、男子三十八名、女子二十七名の六十五名でした。先生は、小西源吉という校長先生ただひとりでした。こうして、ようやくできた学校の開校を村の人たちはみんなでお祝いしました。
三谷源太郎さん(左)と竹沢ナカさん(右)

2 校章と校旗


ひとつの教室、ひとりの先生から始まった発寒小学校は、昭和二年に二学級になりました。昭和三年には、せまいけれども屋内運動場もできました。その頃、発寒にもようやく電燈がつくようになりました。
学校のしるしの校章と校旗ができたのも昭和三年です。校章は、図案を青年団(学校を卒業した青年たちの団体)の人たちが考え、三谷源太郎さんが校旗を作って寄贈してくれました。
校章はサクラに「発」の字を入れ、そのまわりを月桂樹(げっけいじゅ=勝利と栄冠をあらわす)でかこんだものです。サクラと「発」は、日本や屯田兵、また「サクラドリ」の多くすむところという発寒の地名をあらわしています。
この校章は、昭和十一年に一部改められ、さらに、昭和二十六年にまわりを六角の雪の結晶に改め、北方開拓の気持と自主・健康の意味を加えました。
今ある校旗は、昭和三十七年に、沼田善太郎さんが、開校四十周年を記念して寄贈してくれたものです。最初の校旗は、朱色に校章を入れたものでしたが、地色は深みどりになりました。

3 子どもたちの生活


発寒小学校ができるころになると、学校に入らない子どもはほとんどいなくなりました。学校の教育のなかみや方法もすすんできました。
教科書は、文部省が作ったものを全国で使うというようになりました。
学校では、学芸会などもさかんに行なわれるようになって、大正十二年には、美満寿館という映画館で、市内の学校合同の「劇の会」が行なわれています。
スポーツもさかんで、少年野球大会や陸上競技大会が行われるようになり、近くの学校で運動会があると、リレーの選手をおくって、優勝旗をかけて争いました。
遊びは、今のようにテレビもありませんし、いろいろ自分たちでくふうして作りました。竹うまや竹わり、女の子は、おかあさんやおねえさんにお手玉というのを作ってもらって遊びました。かるたや、すごろくは、昔からあったものですが、絵や文は、それぞれの時代で変わっていて、野幌の開拓記念館などにある古いものを見ると、歴史の移り変わりをあらわしていておもしろいものです。
一方、日本の国は、だんだんに戦争に入っていきました。昭和六年満州(今の中国東北)事変、昭和十二年日支事変(中国をそのころシナと呼んでいた)昭和十六年太平洋戦争と、戦争ははげしさをましていくにしたがって、子どもたちの生活や教育の内容も変わっていきます。

4 国民学校のころ


学校では、勉強とともに、からだをきたえること、物を大事にすることなどがさかんに教えられ、上学年の子どもには、教練といって銃の訓練なども行うようになりました。
また、「勤労報国」といって、子どもたちもいろいろの作業にかりだされました。食べ物や着る物も不自由になってきて、配給制といって、わりあてられた切符の分しか物を買うことができなくなりました。お寺の鐘とか家にあるなべやかまのようなものまで集めて軍かんや大砲を作るのにあてました。
たくさんのおとうさんやおにいさんたちが戦争に出ていき、そのたびに日の丸の小旗をふって見送りました。その中にはお骨になって帰ってきた人も少なくありません。
昭和十六年、学校は国民学校と名前が変わります。そして初等科六年、高等科二年八年間は、国民みんなが受けなければならない教育ときめられました。学習内容も、戦争中の教育にふさわしいものに変えられ、教科も国民科・理数科・体れん科・芸能科とし、高等科には実業家というのが加えられました。国民科には、修身・国語・国史・地理があり、理数科には算術・理科・体れん科には、体操・武道、芸能科には、音楽・習字・工作・裁縫(女)家事(高女)がおかれ、実業家には、農業・工業・商業・水産がおかれました。
戦争がはげしくなってくると、体育大会のようなものもできなくなり、剣道や柔道、手旗信号などが教えられるようになりました。中学校の生徒まで戦争に出されるようになり、町では、空しゅうにそなえて、あちこちに防空ごうをほりました。学校にも作りました。子どもたちは、毎日、わたの入ったずきんを背おって登校し、おちついて勉強できない日が続きました。
昭和二十年八月十五日、日本は戦争に敗けました。

5 戦後の学校


長い間の戦争で、しばらくの間、苦しい生活がつづきました。国民はみんな、「もう二度と戦争はしたくない」と考えました。そして、新しい憲法や教育のもとになる法りつ(教育基本法)ができて、平和で民主的な国をつくる国民のための教育が行われるようになりました。
しかし、今までの教育をいっぺんに変えるためのこんらんも大きく、新しい教科書もすぐにできなかったので、それまでの教科書にすみをぬって使いました。
修身・地理・歴史などがなくなり、社会科が新しく加わりました。教科書も、地域にあったものを先生たちが作りました。昭和二十一年には、今のような小学校六年、中学校三年、高等学校三年の六・三・三制がきめられました。
発寒小学校は、昭和十九年に三学級となって以来、運動場もないせまい学校となっていました。それで、昭和二十二年に、父兄もおうえんに出て、新しく三つの教室を作りました。それが今の一年生の二・三・四組です。今の用務員室のところにあった教室ふたつを運動場にしました。しかし、昭和二十四年には生徒がいっぺんにふえて六学級となったため、また運動場がなくなりました。
昭和二十三年に、五年生・六年生が、はじめて登別に修学旅行に行った時は、みんな大よろこびでした。
また、この年に新しく校歌ができました。歌詞を作ったのは、当時発寒小学校にいた佐藤清先生で、作曲は、市内の渡辺日出雄先生です。

6 札幌市立発寒小学校


昭和32年の校舎全景戦争後発寒小学校はどんどん大きくなってきましたが、とくに、昭和三十年、琴似町が札幌市に合併したころからは、毎年毎年生徒の数がふえてきました。
今、職員室と養護学級に使っているところは、古い体育館で、昭和二十六年にできたものです。その前の年には、今の一年生の五・六組と保健室になっている教室を増築しましたが、村の人たちがみんなで、土台の土を運んだりして手伝いました。
昭和二十六年には、それまで琴似小学校へ通っていた南発寒の友だち二十七名が入ってきました。昭和二十七年には、開校三十周年のお祝いをしました。
昭和三十年からは、札幌市立発寒小学校と校名が変わり、二階建ての四学級が新しくできました。昭和三十五年には給食室ができて、みんなが待ちのぞんでいた完全給食が行われるようになりました。新川小学校と親子給食がはじまったのは、昭和三十八年からです。
昭和三十九年には新しい体育館ができ、昭和四十一年には十教室増築になるなど、学校は年々そのすがたを変えてきました。

7 発寒西小学校


昭和四十年頃から、発寒にもたくさんの人が住むようになり、さらに木工団地・鉄工団地ができたため、児童数もふえたので、新しく学校をつくって函館本線から南、稲荷街道から西の児童五◯九名が分校することになりました。校名もアンケートをとって発寒西小学校ときまり、昭和四十二年十二月十六日開校しました。新しくできた小学校は、発寒小学校のほかに、手稲宮丘小学校・琴似小学校からも友だちがきて、開校当時は十四学級でした。それが、今では児童数千二百名以上、三十学級の大きな学校になり、ことしの十二月には、発寒地区第四小学校ができて、さらに分校することになっています。
「ひとりひとりの学力をのばす」ことと、「体力づくり」に力を入れた学習をしていて、ビデオ装置で、放送部の人たちが自分たちで、放送番組をつくっています。
開校の時から昭和四十五年まで、発寒小学校でつくった給食を食べており、今でも時どき球技の試合などの交換会をするなど兄弟校のつながりも深めています。
おかあさんたちの「絵画サークル」「合唱サークル」などの活動もさかんです。

8 発寒南小学校


西小学校に続いて、昭和四十五年十二月二十四日発寒南小学校が開校しました。本校からは、函館本線の南から通学したお友だち三百二十九名が、南小学校へ別れていきました。開校当時の発寒小学校は、西小学校からの九十一名を加えて児童数四百二十名、十二学級の学校でしたが、今では、児童数約六百五十名、十八学級の学校になっています。
まだ新しい学校ですが、先生方もお友だちも、おとうさんおかあさんたちも力を合わせ、「考える子ども・心の美しい子ども・ねばり強い子ども・げんきな子ども・助け合う子ども」をめあてにしてがんばっています。
児童会やクラブ活動がさかんで、発寒小学校からいったお友だちも元気で活躍しています。
発寒地区には、そのほかに発寒中学校(昭和四十二年にできた)、道立琴似工業高校(昭和三十八年にできた)があります。

9 開校五十周年を迎えて


半世紀(五十年)の歴史をもつ私たちの学校をふりかえってみました。
開たくの苦労の中で学校をつくり、郷土の学校を愛し、育てつづけてきた祖父母と父母のすがたを知りました。
開校五十周年という記念の年にいあわせた私たちは、今のような学校をつくり上げてきた多くの人びとに感謝をし、さらにりっぱな学校になるように努力を続けなければなりません。
五十年の歴史と伝統の上に、新しい半世紀をつみあげるためにー。

発寒とその付近