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発寒の地理・人口・データ

□地 理
札幌市西区、新川以南、発寒川以西の平坦部に位置し、札幌の歴史の中でも最も古く知られた地域の一つ
□人 口
発寒地区  約17,000世帯 約31,000人
発寒北地区   9,066世帯  17,350人
合計人口  約48,000人

※令4年4月1日現在

「発寒(はっさむ)」の地名のなりたち

「はっさむ」の基になった「ハッシャブ」もアイヌの人たちが付けました。「はっさむ」は、古い記録や地図を見ると「ハッシャブ」とか「ハッサフ」というように書かれているものが多く見られます。

発寒神社の旧境内に明治26年8月建立の「発寒開村記念碑」があり、その碑文の中に「発寒とは夷語にいう所のハッチャム、即ち小椋鳥の義也、蓋し此の多く在りしを以て也」とあり、この他にも多くの人が論じています。
松浦武四郎は「後方羊蹄日誌」の中で「ハツシヤム」と記述し、永田方正は「北海道蝦夷語地名解」で「ハチャム ペッ」と記述している。アイヌ語学者の知里真志保博士は「分類アイヌ語辞典第二巻動物篇」で「ハチャム」と述べ、また「ハッ・サム」と分けて「山葡萄・の傍」ではないかとも試案していました。

しかし今日になってみると、真の意味を知っていたはずの発寒在住のアイヌの人はいなくなり、真実を確認することができません。「はっさむ」は未だに地名起源が一つにまとまっていない地名の一つなのです。

琴似発寒川

琴似発寒川の上流にあたる平和、福井、西野地区では、地下水が利用しづらい地質だったため、古くから用水路を作って琴似発寒川の水を米や野菜作りのために利用していました。
地域の人々にとって琴似発寒川は恵みの川でした。川の水は澄んでいてヤマベやウグイなどの小魚がたくさんいて、また、サケも帰ってきていました。

琴似発寒川の上流は急流のところが多く、曲がりくねっていました。昔、春先の雪融けのころや大雨の続いた時などは洪水となり、たくさんの土や小石が削られて下流へ流されていました。

天狗橋

天狗橋の由来
明治四十二年に新琴似側に発寒特別教授所、つまり今でいえば小学校の分校が設けられて対岸の発寒からも生徒がきていたという。
言わば通学橋の元祖ともいえる橋である。
天狗橋の名が付いたのは明治四十五年頃の新橋架橋の時であるといい、その名は工事請負の棟梁が、鼻の高い人出天狗のあだなのあった琴似屯田兵、堀内清四郎からきているという。
「札幌地名考」より
平成三年三月吉日建立 札幌市

ぎんなん通り

稲荷街道とぎんなん通り

西区内で最も古い道の一つが、稲荷街道(市道稲荷線)です。在住武士の山岡精次郎が発寒に入ったとき、郷里の京都伏見稲荷神社から分霊して社殿を建て、これを稲荷神社としたといわれています。いつしかこの神社前の沿道を、神社の名にちなんで「稲荷街道」と呼ぶようになりました。
開村当時から重要な道路でしたが、かつては両側に排水溝があって、路面がやわらかくて、馬車がぬかって大変でした。

昭和46年から排水暗渠工事が始まり、また、商店街振興組合が中心となって水銀灯52基の設置、ナナカマドの街路樹が植えられました。さらに、路面舗装や歩道橋の分離、ナトリウム灯への切り替えなどで近代的な商店街が作られました。

平成4年には流雪溝工事着工、カラー舗装、水銀灯の切り替えられ、平成6年の完成時には、銀杏の木を植えられた事から通称「ぎんなん通り」と呼ぶようになりました。

平成25年に歩道のバリアフリー化工事に伴い、街路灯が水銀灯からLEDとなりました。

発寒流雪溝

人口増加、バス路線でもある稲荷街道(ぎんなん通り)は雪処理には困難を極め、さらに堆積した雪で交通渋滞が起きていました。そうした状況を解決するため、昭和62年、発寒北連合町内会と商店街による「発寒北街づくりプロジェクト会議」を組織、幾たびかの会議・研修を重ねた結果、市内の他地区で運営していた流雪溝が最適と判断し、その後「稲荷街道流雪溝促進期成会準備委員会」を設立。
平成2年には、発寒北・発寒地区が連携し「稲荷街道流雪溝促進準備委員会」を開催することになりました。
それまでの積極的な活動と、度重なる行政への強い要望が札幌市を動かし、翌平成3年、正式に発寒流雪溝建設が決定し、4年度着工、6年12月に完成し、12月27日には発寒小学校において完工式が行われました。現在は流雪溝運営協議会を組織して、管理・運営しています。

工事着工:平成4年4月
供用開始:平成6年12月(完工式・12月27日発寒小学校)
道路延長:約2,900m
流雪溝延長:約5,800m(2,900m×2系統)
流雪溝断面:H800mm×W600mm
放流先:琴似発寒川      投雪口:425ヶ所
デザイン照明:63灯      事故通報信号機:36基