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郷土史 「はっさむ」

発寒小学校郷土史編集委員会/昭和44年10月1日発行
発行者/札幌市立発寒小学校、開校五十周年記念協賛会



本文

資 料 編 2


本文中の詩、作文




六年 本平 和成
ぼくの家の近くに、古い家がある。
その家のまわりに、数本の木がある。
その中で、
黒く ふとく 高く
ごつごつしていて 傷だらけの木が
一本たっている。
その家に住んでいる人に聞くと、
この木は八十年は たっているという。
これから まだまだ 生き続けるだろう。
なん十年も生きるかもしれない。
歴史に残る木、
力強く生きてほしい木。


発寒のむかし
三年 阿部 年美
わたしは、おじいちゃんから、発寒のむかしの話を聞いてまとめてみました。
この町に、むかし屯田兵が入って、土地を開たくしたのだそうです。そのころは、おじいちゃんが小さかったので、家のまわりであそぶことしかなく、時には、友だちと細い道を通って、野原のおくの方に行った時は、大きな木がはえており、草もおとなの人のせよりのびていて、昼でもくらく、とてもさびしいところだったそうです。
雨などふった時は、ところどころに雨水がたまって、道はぐちゃぐちゃで、歩くのがとてもたいへんだったそうです。畑には、いもやごぼうなどがたくさんうえてあって、そこでとれたやさいを、札幌やことにの町に売りに出たのだそうです。
家は、今のようなりっぱなものではなく、やねはまさぶきで、まわりは板を使っていたので、夏は、すずしくてよかったが、冬になると、ものすごく寒くて、いくらストーブにまきを入れても、家はあたたかくならなかった。やさいや、ごはんの残ったものまで、こおって、たいへんなめにあったそうです。
発寒から札幌やことにの町に出るには、みんな歩くか、馬や馬車にのって行ったそうです。
こんなにふべんだった発寒が、今では、ほそう道路になって、バスがたくさん通って、ほんとうにべん利になりました。おじいちゃんの話を聞いて、よい勉強になりました。


五十年前の発寒
五年 小屋敷 勝彦
今から四十五、六年前の発寒は、人口も少なく農家ばかりだったそうです。
学校も小さく、教室はふたりで、一年生から六年生までわかれて入っていたそうです。
学校のそばに神社があって、そばにたくさん木がはえて、とてもさびしかったそうです。学校の前に、今でも昔の松の木が一本のこっているということです。
朝夕、かえるが鳴き、いろいろな鳥がさえずっていたそうです。発寒川やメガネ川の水も、すんでとてもきれいだったそうです。魚つりの人が大ぜい集まったそうです。
交通も、馬と馬車だけだったそうですが、今からみれば事故もなく遊ぶところも多くて、昔の方がよかったなあと思います。おばあちゃんから聞いた話です。


発寒小学校五十周年
六年 黒川 邦子
自然の中に
小さく生まれた学校
ひそかに 静かな所にできた学校

古い校舎や新しい校舎は
五十年の移り変わりをみせている。
校舎のらくがきやいたみは
発寒小学校の思い出を語っている

五十年の歴史をもつ学校
発寒小学校
大きくなった私たちの学校


発寒のおいたち
六年 四戸 真理子
来年わたしたちは、卒業です。その前にわたしは、発寒の昔のすがたを知りたくて、発寒小学校を卒業した祖父に聞きました。本当は父でもよいのですが、祖父は第一回卒業生なので少しでも昔のことをしりたくて、祖父に聞きました。
祖父が小学校に入った、ちょうど五十年ほど前は、発寒小学校はなかったということです。琴似小学校に発寒の子供が通っている時、琴似小学校が火事になりました。そこへ竹沢さんという人が今の土地をきふしてくれたそうです。もしその時、竹沢さんが土地をくれなかったら、発寒小学校はなかったかもしれません。そして、建てたのは、そのころ大工をやっていた、わたしの祖父の父(四戸幸蔵)たちだそうです。
十月一日。ついに学校ができました。学校といっても、教室一つ、運動場一つ、そして、小さな職員室一つという小さな学校でした。そして、給食がなかったので、教室には、おべんとうを置く台があったそうです。
発寒小学校には、琴似小学校の一年生から六年生まで三十六人が移り、校長先生(小西げんきち先生)もいっしょに移りました。
校長先生の仕事は、生徒に勉強を教えたり、用務員をやったり学校中のことを何から何までやっていたというのですから、大変な職業だったようです。
そのころの発寒の人家は、三十五、六けんしかないとてもさびしい所だったそうです。こんなさびしい所ですから、店はざっか屋一けんだったそうです。そのころの人々は、今のように買い物の楽しさを知らない人ばかりだったと思います。
そのころの発寒の道は、四メートルぐらいで、ふちはささの葉がしげり、夜は歩けず牛をほうぼくしておいたそうです。
乗り物は、馬車と汽車だけで、汽車は蒸気気かん車ぐらいだけで、二時間に一回しか通らず、今のように公害さわぎするほど害もあたえなかったので、鉄道用地にも牛をほうぼくしておいたそうです。
わたしが、祖父から聞いて一番いやだったことは、そのころは不作続きで、生活していけなくなった人びとは自殺をする人まで出たということですが、よそから発寒まできて自殺したということです。
昔は部落のようだった発寒も、今ではボーリング場も建ち、バイパスもでき、大きく変わりました。これからの発寒はどのような進歩を見せるのでしょう。未来がとても楽しみです。

資料

交通公園 −旧農業試験場あと−
大正十四年に琴似に農業試験場ができてから、数々の業績をあげてきましたが、試験場のまわりにも家がたち市街化してきたので、試験場として適さなくなってしまいました。
それで昭和四十七年七月から、札幌市羊丘に移転をはじめ、新しい設備を整えて、四十二年三月に移転が完了しました。
その跡地にできるのが交通公園です。市がこの跡地を農林省からただでかり、昭和四十五年から五ヶ年計画で公園化しているものです。
公園の三分の一は子供の交通公園として、道路、踏切、立体交さ橋などを設けるほか、足踏式のゴーカートを置いて、交通事故防止の安全教育をしようというのがねらいです。
この交通公園が完成すると、西区内はもちろん、全市内の子どもたちの安全教育に利用され、西区の中心的な公園となることでしょう。

発寒川緑地
発寒川の河川改修にあわせて、発寒河畔公園の造成にかかったのは昭和三十八年です。発寒河畔公園協力会が結成され、発寒川の河畔を緑ゆたかな河畔公園にし、住民のいこいの場所にしようというものです。
発寒橋から、ふもと橋附近の約八百メートルを緑地化し、三年計画で、花だんや広場、遊戯施設などをつくりました。
又発寒橋の下流の公園には芝生を植え、川岸に水バショウや、エンレイ草など、野生の草花を植え、将来は平和の滝から新川までの河畔公園を造成する計画です。
この河畔公園は、児童生徒の遠足の場所として、親しまれております。全部でき上ると今までにもまして市民のいこいの場所として喜ばれることでしょう。

文化都市にふさわしいゴミ処理を行っている近代的な発寒清掃工場
鉄工団地のすぐそばにできた発寒清掃工場は敷地二万四千三百平方メートル、地下一階、地上五階、高さ三十五メートルの鉄筋コンクリート造りです。
焼却炉は外国の技術を導入した最新の大型機械炉で、炉内の温度は七百五十度から一千度という高温で、このため有毒ガスは熱分解され、悪臭をはなつ心配がありません。また騒音防止設備もととのっています。一日のゴミの処理能力は三百トンで、二十四時間フル運転が可能です。
工場内の装置は、すべて中央制御室からリモートコントロールで操作され、作業は清潔で能率的に行うことができます。
さらに、もえかすは水中を通すので粉じんが飛散しないようになっている上、高性能の電気集じん装置を取りつけていますから、七十メートルの煙突から出るものは、ほとんど蒸気だけで、煤煙公害の心配は全くありません。
また、炉内の高温ガスは排熱ボイラーを使用して二百五十度から三百度に冷却しますが、この時生じる熱量が六百から八百キロカロリにものぼりますので、これを利用して場内に温水プールや熱帯植物園をつくるほか、近くの鉄工団地の地域暖房などに利用する計画があります。

編集後記

郷土誌「はっさむ」によせて
発寒小教頭 溝口賢治
石狩平野の一画、この発寒に開拓の第一歩が踏み出されてから百年、先輩各位の偉業は、今日の発寒地区発展の基礎をゆるぎなく固められました、この間のご労苦は並々ならぬものであったことと思います。今発寒に生活している我々は、先輩の苦難と功績をしのび、正しくこの地の歴史を知ることにより、よりよい発寒の町づくり、住民としての責任感、そして郷土愛の心情をより深めることができると思います。特に他地区から転入のいちじるしいこの地区にとっては、大事なことであり、未来を築く子ども達には、欠くことのできない教材として重要視される以所であります。
今年は本校の開校五十周年という意義ある年に当たり、去る六月二十四日に発寒小学校開校五十周年記念協賛会が結成され、記念事業として、郷土誌「はっさむ」を発刊することになりました。以前からその必要性を考えてはおりましたが決定から発刊まで期日が少なくなかったことから、協賛会の役員、委員、同窓会、地区の方々には大変なご苦労をおかけしましたが終始ご協力ご支援くださいました事を厚くお礼申し上げます。実際に編集を担当した本校の先生方には、学期末とかさなっての資料調査、研究、編集等連日夜おそくまで、文字通り精力的に活動をしていただき本当にご苦労さまでした。この郷土誌「はっさむ」が児童の副読本として、また地区の多くの方々に愛読され、活用されることを信じ、ご協力くださいました関係各位に心からお礼申し上げます。

〈郷土史はっさむの編集を終って〉
発寒小学校の図書室に、「はっさむ」という名の郷土誌があります。中の紙は、もう黄色くなり、本の表紙や、へりがいたんで、大分年数がたっていることを物語っています。
一見、あまり見ばえのしないその本が、非常に貴重なものであるということがわかったのは、大分後になってからでした。
自分たちの郷土のありのままの姿を知ることは、大人ばかりでなく、子どもにとっても大切なことだと思います。
発寒小学校は、今年、開校五十周年を迎えましたが、その輝かしい歴史を記念するものを何か残したいという気持ちはみんなが持っていました。その中で、私たちの住んでいるこの郷土発寒の今までの発寒のすがたを、私たち自身の手で書いてまとめてみようということになりました。
編集委員がきまり、仕事を始めたのは今年になってからです。短い期間でしたが、みんな精力的に活動し、何とかまとめることができました。
ふりかえって見ますと、もっとゆっくり時間をかけてねりなおす余裕がほしかったと思います。学期末の多忙さとも重なって、お互いに苦しい思いをしたことも今では思い出になりました。
内容の構成や形式など、大まかな線については職員に了承されておりますが、そのあとは執筆者に一任されておりましたので、いろいろな点でご不満も多いかと思われますが、そこはご寛怒くださるようお願いいたします。
地域の方々からは、ご多忙中にもかかわらず、いろいろとご指導やご助言や、貴重な資料等のご提供を受け、多大なご協力を得ることができました。このことは編集にあたった私共の大きな喜びとはげましともなりました。
また、資料を収集するために、開拓記念館、道立図書館など方々へでかけましたが、そのために、特に便宜を計らって下さった方々に対しても厚く感謝し御礼を申し上げます。
本文は、三年生から読めるように、文字や言葉を吟味したつもりです。
また協賛会のご好意で、発寒地域の三小学校PTAの全家庭や、関係箇所に配布することができましたが、社会科教材として、図書室に長く保管し、全児童に活用してもらうようになり、大変嬉しく思っております。
編集にあたって、資料集めや、原稿の整理などにご協力下さった教職員の方々にも感謝いたします。
子どもたちが、この郷土誌『はっさむ』を活用して、先人の努力と苦労を偲び、郷土愛が芽生えてくれることを願ってあとがきと致します。
発寒小学校郷土誌編集委員会

◯参考資料
琴似町史 琴似のおいたち 札幌百年のあゆみ 札幌市史 札幌市史概説年表 札幌市統計書 記念誌(発寒神社) 札幌百年の年譜 琴似兵村誌 札幌市史概説年表稿本 札幌市地理読本 琴似の歴史 石狩平野のおいたち 北海道百年のあゆみ 北方文化論 札幌開拓資料 北海道の川の名 札幌 札幌のアイヌ地名を尋ねて わたしたちの札幌 北海道の文化10 アイヌその起源と文化形式 北海道の先史文化 新考北海道史年表 屯田兵村 発寒町内会郷土誌 郷土誌「はっさむ」 北海道の歴史・その他諸記録
◯史跡・及び資料調査場所
発寒ストーンサークル 発寒開拓記念碑 環状石垣之跡 手稲記念館 北大植物園内植物館 北大附属図書館 琴似神社 屯田兵屋 清野屯田兵屋 琴似小学校展示 永田休蔵の碑 発寒開村記念碑 北海道開拓記念館 北海道庁資料室 北海道立図書館 発寒神社 札幌市立図書館 札幌市西区役所市民課 札幌市役所行政資料室 王子不動産株式会社
◯おせわになった方
笠原 安治(開拓記念館) 小田島和平(道立図書館) 他発寒西小学校、発寒南小学校、手稲東小学校、新川小学校の諸先生

郷土誌「はっさむ」
発行 昭和四十七年十月一日
発行者 札幌市立発寒小学校
開校五十周年記念協賛会
印刷所 高速印刷センター
札幌市西区手稲稲穂四七二
非売品