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郷土史 「はっさむ」

発寒小学校郷土史編集委員会/昭和44年10月1日発行
発行者/札幌市立発寒小学校、開校五十周年記念協賛会



本文

二 座 談 会

発寒のむかし


発寒小学校の開校は、今から五十年前(大正十一年十月)ですが、ここ発寒の地に開拓のくわがふりおろされたのは、今から百年前(安政四年・一八五七年)のことでした。
現在では住宅地や工業団地として発展しているこの地も、小学校開校や開拓当時の人々の苦労があったればこそだと言えましょう。
そこで、今日は、当時のことをよく知っていらっしゃる方々にお集りをいただき、『昔話を聞く会』というのを計画しました。次の文は、その会の様子を記録したものです。
先人の苦労をしのぶとともに、私たちの発寒が今後ますます発展することを祈ってやみません。

次の方々にご出席いただきました。(五十音順)
内山  洵さん  剣持 利男さん  小沢福太郎さん  四戸  正さん  下山 美作さん
田中 徳太さん  寺田 静子さん  三戸部清一さん  山根 友一さん
学校側出席者
溝口 賢治(本校教頭)   種市誠次郎  斉藤 麗子  石井  俊  宮田 哲男
樋口  誠  荒川  忠  塚村 長治

剣持 本日はご苦労様です。
 私達が計画しました『昔話を聞く会』にご出席いただきありがとうご座いました。
 今年は発寒小学校が開校してから五十年目に当たりますので、つきましては、その資料の一部として、みなさんのお話を聞きたいと思ったわけですどうぞよろしくお願い致します。
 まず最初に、発寒小学校の溝口教頭先生にご挨拶をいただきます。
溝口 今日は学校長がご挨拶を致す予定でおりましたが、急用ができてそちらへ行っております。よろしくとのことでしたで最初にお伝え致します。
 本日は悪天候のところご苦労様です。
 今、剣持さんからお話がありました通り、開校五十周年を記念して郷土史を発行することになりましたので、古くからこの発寒にお住みの方々からお話をお聞きして、子ども達の参考にしたいと考えたわけです。
 私達も発寒の歴史を知ることにより、連帯感がうまれるでしょうし、子ども達にとっても有意義であろうと思われます。
 今日ご出席の方々は、開拓の頃からおられた功労者の方々ですので、古くからの様子や、その変化をお話しいただき、意味のある会にしたいと思っております。
 なお、この会を開くにあたりましては、剣持さんと内山さんにご尽力をいただきましたことを厚くお礼申し上げますとともに、ご出席の方々からは充分お話をお聞きしたいと考えておりますので、よろしくお願い致します。
剣持 私達の時代と、先輩の時代とは、いろいろ違うところがあると思います。
 まず、古い生活や農業などのことをお聞きしたいのですがー。
種市 昔の様子、たとえば畑、服装、住まい、店などについて子ども達が聞きたがっているのです。

あきあじが取れた
田中さん、あきあじをつかまえたことがありましたか?
田中 いやあ、よく上がったね。学校裏の川にあきあじが上がった。
 そう、今の住宅の近くでね。十二匹もすくったことがあったね。
剣持 それはいつ頃ですか?
内山 発寒小学校ができた頃ですよね。
三戸部 グランドの上流でね。あの川はあとで『さけみ川』と名まえがついてね。
 最初は西野の人々が用水路として造ったんだが、発寒川から水を引いていたのでよくあきあじが上がったね。今なら一匹三千円位のがね。(笑)
 そうそう、うぐいや、ざりがにや、よこえびなどが無数にいたね。
田中 発寒川にはやつめがずいぶんいたが、今はどうだろううなあ。
山根 製紙工場(注・札幌製紙発寒工場のことで発寒川の近くの線路そばにありましたが現在はありません。)ができて、水を流してから、さけも小魚もだめになったね。
 わたしが高小(注・高等小学校のことで現在の小学校高学年から中学校に当たります。)の頃は学校の帰りにもりでよく取りましたよ。
寺田 どうやって取りましたの?
山根 陰にかくれているのをね。引っかけるのですよ。
寺田 そんなによく取れましたか?
四戸 そう、正月の魚は川で全部取れたからね。
剣持 取れなくなったのはいつ頃ですか?
三戸部 大正だろう?
山根 いや、昭和の初めには取れていたよ。
三戸部 それは密漁だな(笑)
小沢 巡査に追いかけられたな。
 夜になってから取りに行くだろう。巡査が来ると明りを向けて、そのすきに逃げたもんだ。(爆笑)
三戸部 密漁のうわまえをはねられたことがあったね。
 消防団の制服を巡査と間違えて魚を置いて逃げたら、魚だけ取られたっけ。(爆笑)
四戸 消防団というとー。
三戸部 琴似の消防団だよ。警察とよく似ているんだ。
 当時の罰金は十円(現在の一万円位に当たります。)ですよ。つかまったら終わりだよね。
寺田 なぜ密漁がやかましかったのでしょうね。
三戸部 種川だったからね。
四戸 それに魚がごちそうだったからね。密漁とわかっていてもしたからね。
三戸部 おやじが毎日取って来てね。食うのがいやになったよ。十一月にはあきあじを乾燥させ、それを正月に食べても夏まではあったね。
 わしのいとこが馬に乗り、たいまつとかかぎを持ってひとばんで五十匹も取ったことがあったね。馬だからあきあじのたくさんいる深い所まで入れるわけだからね。(笑)
田中 川の深い所へ飛びこんでしまって、ずぶぬれになったこともあったなあ。
三戸部 開拓の初めの安政年間から、あきあじはよく上がったそうだね。
 小さい川なら『つねはち川』(注・この川の近くにつねはちという人が住んでいたので、その名まえが付きました。)がよく上がったね。
四戸 わき水だったね。
田中 さいとうの池まで来たね。
小沢 いやいや鉄道を越えて沢の近くまで上がったね。
寺田 あきあじも自然がきれいだったのでふえたのでしょうね。
田中 川の水もきれいで飲めたよね。
寺田 みんな飲んだ飲んだのでしょうね。

ランプから電燈へ
 わたしがお嫁に来た時はランプで結婚式をしましてね。びっくりしました。慣れるまではよく『ほや』にぶつかりましてね。
 それで電気会社と交渉したわけです。
四戸 そう、一軒に六燈の割り当てでね。
寺田 電気会社と交渉して電燈をつけました。昭和二年頃でしたかしら。
三戸部 いやいや昭和七〜八年だよ。青年学級の時はランプだったからね。学校の運動場にひとつだけあってね。徴兵検査もランプだったよ。
田中 そうだよね。
寺田 うちの地区は少し早いのでしょうか?
田中 線路上(注・鉄道と国道の間)と下(注・鉄道と新川の間)では違うからね。
山根 製紙工場の方からついたのではなかっただろうか。
田中 畑の中に電柱を立ててね。
山根 そう、線路下からついたんだよ。

発寒小学校の始まり
石井 発寒小学校はどこから分かれたのでしょうか。
 前に新川小学校から分校したという話を聞いたことがあるのですがー。
三戸部 前に郷土史にもそれらしいことが書いてあったが、あれは違うね。
四戸 そう違うね。琴似小学校からの分校だよ。琴似小学校が焼けてね。分かれて勉強していたら、竹沢ナカさんが土地を寄附して、十月(注・大正十一年)から発寒小学校ができたんだ。
種市 新川小学校からも来たのではないですか。
四戸 いや琴似小学校だね。
寺田 小西先生(注・初代校長)でしたね。
四戸 よく棒でなぐられたよ。
三戸部 古い校舎も全部こわしたね。
四戸 もう残っていないね。
宮田 それはいつ頃ですか?
四戸 東峰先生(注・二代校長・昭3〜昭6)の時だね。
剣持 正門は今と同じですね。あのオンコも古くからあったようですね。
溝口 その三谷源太郎さんが建てた最初の校舎は残っていないのですね。
 学校の書類では残っていることになっているものですからー。
三戸部 運動場(注・現在の屋内体育館)を建てた時にこわしたね。
剣持 ヤナギとクルミはありますね。
溝口 あります。あります。

つまごをはいて
塚村 当時のはき物は何でしたか。
四戸 つまごやふかぐつをはいてたね。わらぐつもはいた。
荒川 畑へ入る時は何をはきましたか?
 つまごやわらぐつでは水がしみこんだりして、きっと困ったと思うのですがー。
四戸 最初ははだしでね。初ははだしでね。つまごもはいたし、あきあじの皮で作った靴もあったね。しかし、つまごはすぐぬれるので、毎日かわかしたね。だから、ぬれないあきあじの皮の靴がうらやましかった。(笑)
小沢 ぼっこ(注・足袋の底をさして糸で補強したもの)もはいたね。
下山 はだしの方が楽でしたね。
山根 靴では穴ばっかりあいてだめだったね。(笑)

水田も終わりだ
三戸部 しかし、発寒の水田もおととしで全滅したね。
下山 温床苗に変わったのはいつでしたっけ。
剣持 戦前ですよ。終戦の十年ぐらい前かな。
下山 最初はばくちのように感じましたね。苗のたけが低いものだから。
 しかし、冷害に強いし良かったですね。

主食はこめとむぎ
斉藤 食事はどんなものでしたでしょうね。今のものとは大変なちがいだと思いますがー。
四戸 米と麦でね。弁当に入れる時は、下の方から米だけを取ってね。家では上の方が麦がほとんどだったな。
 そうだ。米は売ったしね。あわも食べたね。
三戸部 麦・あわ・そばを作ったね。自家用として水田も作ったけどね。
四戸 畑が多かったよな。

牛は道路に放して
四戸 それだけでは生活できなくて、牛を飼った。道に放しておいてね。
下山 寺田さんが早く牛を入れましたね。土地が良くなかったので牛を入れることになったんですがね。
寺田 そうそう。その牛がよく汽車にはねられましてね。
四戸 そうだ。牛が行かない所は草たけが大きくてね。札幌の人が、よくその草の所から鉄道自殺をしたね。(笑)
 いや、笑いごとじゃなかったよ。

ビール麦を作った
石井 作物はどんなものだったのでしょうか。
三戸部 最初は草に火をつけてね。焼いてから植えたな。あま・なたね・くわなどはすぐ育った。開墾が進んでからはビール麦と大根を植えた。
四戸 大根をすすきのへ売りに行ったなあ。しかも夜になってからね。(笑)
田中 夜の大根売りでは、よく帰って来なかったぞ。(爆笑)
三戸部 内山さんが発寒に来てから、本格的な野菜作りが始まったね。今はだめになったね。
四戸 えんばくも作ったね。だっこくはたたいてね。千歯こきも使った。
下山 もみすり機がありましたね。足ふみ機も使いましたよ。
小沢 あの頃はビール会社がたねを用意してくれたのでやり易かった。肥料はもらわなかったなあ。
山根 あまの時も肥料は買ったね。
田中 どこも肥料はくれなかったよ。
小沢 秋にさしひきするので買ったことになるんだよ。

昔の家
種市 昔の家はどのようでしたか?
三戸部 まさぶき屋根でね。煙出しをつけたね。
四戸 納屋はかやぶきでね。角材はほとんどナラだったよね。

店への支払いは一年に一回
剣持 店の最初はどこでしたか?
三戸部 斉藤病院の前だったよな。
山根 店らしくなったのは光永さんからだね。
四戸 みんなが店から借りっぱなしにしたから、よくつぶれたんだよ。(爆笑)
田中 一年勘定だったからな。
 あまやビール麦を会社に入れて、現金が入るのが九月か十月だったからね。そう言えば、店はどこからでもよく見えたな。
三戸部 発寒全体でも百五十戸ぐらいしかなかったのではないかな。
山根 それぐらいだろうな。

サクラ鳥が多かった。
樋口 発寒には昔からサクラ鳥がたくさんいたそうですね。そんなに多かったのですか?
三戸部 たくさんいたね。青虫なんかをよく食べたね。
山根 昭和の初めまでは多かったね。
寺田 サクランボの時期になると、よく見ましたね。
剣持 サクラ鳥は子どもが少し大きくなると、サクランボをおそうんですね。イチゴもね。

大木には苦労
荒川 いろいろな苦労があったでしょうね。
三戸部 開拓の時は大木だね。
小沢 一坪にカシワの大木が二本もあってね。くわで掘ってから、まさかりで根を切った。
寺田 機械なんてありませんでしたからね。
四戸 プラオを使ったんだがね。すぐに根にぶっかって動かなくなるしね。
 しかし、その大木を冬のたきものに使えて便利は便利だったがね。
 つらかったね。

自然を友としてー。
石井 遊びはどうでしたか?
四戸 学校から帰ったら仕事に使われたからね。今のような遊びはしなかったね。
剣持 遊び道具もなかったですしね。
寺田 息子は自然を相手にして遊んでいたようですね。木に登ったり、発寒川に入ったりしたようですよ。
 息子のクラスは九人ぐらいでしたから、授業中に全員で泳ぎに行って、先生によくしかられたらしいですね。(笑)

お昼はおにぎり
剣持 学校への弁当は何でしたか?
 今なら学校給食というのがあるのですがその当時はねえ。
山根 にぎりめしだったね。ほうろうびきの弁当箱もあったね。
四戸 こおりの弁当箱も使ったね。

着物で学校へ
塚村 その時の服装はどうでしたか?
 洋服はほとんどなかったのでしょうね。
四戸 着物だったからね。足袋をはいてね。
三戸部 先生は洋服だったね。
四戸 かすりの着物でね。はかまをつけたこともあったね。

寒さと大水の発寒
種市 発寒と言うぐらいだから、ここは昔から寒かったんでしょうかね。
 今でもかなり風は強いようですがー。
三戸部 風は強かったね。橋のあたりからは特に強かった。
四戸 電線まで雪が積もったしね。馬を一週間も出せないことがあったね。
剣持 水害もよくありましたね。
四戸 しょっちゅうだったね。学校の川がよくあふれたね。
下山 新川もよくあふれましたね。大水で鏡のように見えたことがありましたよ。
小沢さんは、発寒川の変わり方をよく知っていますよね。
小沢 製紙ができてから、きたなくなってしまったね。
寺田 今の公害ですね。

青年会が中心の運動会と学芸会
剣持 昔の運動会はどうでしたか?
三戸部 大正十二年が第一回目の運動会でね。青年団が楽隊をしてね。盛大だった。けれど、午後から雨が降ってきてね。(笑)
 忘れられないなあ。
下山 それはおぼえていますよ。
内山 おれ達の時はレコードだったなあ。
剣持 そうだね。
山根 学芸会もあったな。
剣持 その頃の運動会は青年会が中心でね。寄付集めもやりましたよ。とにかく部落全体の行事でしたからね。
樋口 その当時、学校に青年会のへやがあったという記録がありましたよ。
下山 小学校を出たら青年学校に入りましたからね。
田中 青年会長は名まえだけだったけどね。(笑)
下山 女子もいましてね。冬には裁縫を習っていたようですね。校長先生の奥さんが教えていました。

住宅地に変化
溝口 発寒の変わり方ですが、開拓以来の農業が今のような住宅地や工業地帯になったのは地区の人々が相談なさったのでしょうか?
寺田 ひとりでに変わったのではないでしょうか。
四戸 自然にだね。
三戸部 そうだね。
寺田 戦後、外地からみなさんが入って来ましてね。道幅が一間(注・1.8m)でも家が建てられましたので今のような発寒になったのですね。みなさんは道幅がせまくて今はお困りのようですがー。
剣持 戦後、農業委員会ができてからはよくなりましたね。
溝口 あっと言う間の変化なので、みなさんで相談なさったのかと思ったのですがー。
田中 白石のようではなかったね。
四戸 うちはね。土地を売らないつもりだったけれど、まわりが住宅地になってしまってね。
小沢 そうだね。人ぷんもまけないしね。しかたなく宅地にするということだね。
三戸部 自然が良かったから自然に開けた。(笑)酒工場もあったしね。(爆笑)
剣持 線路上は道も多くて相談の必要を感じなかったですね。そういう話もあったらしいですがー。

りんごの木
溝口 りんごの栽培は農業試験場がしたのでしょうか?
三戸部 全体の一割ぐらいは作っていましたね。つい、こないだまではね。
剣持 うちには五十年から七十年ぐらいの木がありました。今では発寒にはなくなりましたね。
下山 りんごにかける農薬が人や家畜に害を与えるのですね。
剣持 この辺では、もう無理でしょうね。一時は財務署と団体交渉するぐらいの力があったんですがね。今は全くだめですね。
四戸 税務署といえば、牛でもうけた人がいたね。
三戸部 めすがとんとんと生まれたところはもうかった。
下山 しかし、金は使わなければ残りますね。(爆笑)

よくやった“早めしは”
宮田 学校の思い出にはどんなことがありますか。
 先生のことや遊びのことなどで、どうでしょうか。
三戸部 学校の煙突掃除をしたね。六年の時だな。たきつけ割りもした。
四戸 授業中に早めしをしたよ。(笑)先生が黒板に向かっている時にやるんだ。(爆笑)
下山 勉強のほかに楽しみもありましたね。冬は雪ぶっけ、夏は木登りやぶどう取りを神社(注・発寒神社)でよくやりましたよ。
内山 校長先生から遊びましたからね。(笑)中島先生(注・三代校長・昭6〜昭9)なんか犬が好きでね。授業中に犬のえさを取りに行かせるのですよ。(爆笑)
山根 今はあまり勉強勉強と言うから、子どもがかくれてマンガを見るようになるんだよ。その点、われわれは自発的に勉強したからね。(爆笑)
剣持 家では使われるから、学校で遊んだんでしょうかね。
四戸 川で泳いでね。遅くなったので学校で残されたとううそを言ったもんだよ。(笑)
下山 しかし、上級学校へ行く人はよく勉強していましたね。
寺田 昔は育て方もなげやりでしたからね。(笑)

小さな学校でもー。
斉藤 同じ教室にいろいろな学校が入っていて良かったことはありませんでしたか?
山根 上の学年のことがひとりでに頭に入ったね。
下山 小さい学校だからという、ひけめはなかったですね。
三戸部 しかし、算術(注・今の算数)はおくれていたね。
山根 やはり勉強はおくれていたなあ。
四戸 自習が多かったからね。しかたがないよ。

みなさんしっかり
種市 最後に、今の人々に望むことを一言ずつお願いします。
山根 人間としての勉強をしてほしいね。
三戸部 母親は教えることをしてほしいね。
寺田 最低の躾を考えていただきたいですね。
小沢 しっかり頼みますよ。
田中 全体にぜいたく過ぎるね。
山根 時代のずれだろうけどね。
剣持 なかなか話も尽きませんが一応終わりにしたいと思います。郷土史へのご協力ありがとうご座いました。
 学校の五十周年にもよろしくお願い致します。ありがとうございました。