五、学校の歴史

1、教育の移り変わり


(1)明治初年頃の教育
明治四年頃は琴似附近には学校らしいものはなく、札幌に資生館(今の中央創生小学校の前身)という教育所があつて、主に武士のこどもだけを教育し、四書、五経、通鑑、日本外史、国史略、十八史略等を教えていました。
後明治五年に学制がしかれ、部落の子供も入学出来るようになりました。これが札幌の学校のはじめです。
(2)琴似小学校
明治五年十一月に琴似の二十四軒国道筋に、遠藤祐三郎という人(会津の武士)が先生となつて子供十二三人を集めて勉強を教え、(寺子屋式)明治八年頃屯田兵も多くなり、(二百数十戸)明治八年六月に兵舎を学校として、四人の兵隊が先生となつて勉強を教えました。当時は男三十五人女六人でこれが琴似地区の学校の初めです。
この頃の人は、つまごをはき、綿入れの着物を着て石板と石筆、或は上の方に二つ玉のあるそろばんで勉強しました。
(3)発寒特別教授所(新川下尋常小学校)
明治四十二年九月発寒に琴似尋常小学校の附属として、発寒特別教授所が新しくつくられ、大正六年に発寒特別教授所は独立して、新川下小学校となりました。しかし現在の発寒地区には学校がありませんでしたので、こどもの一部は琴似へ一部の生徒は新川下の学校へ通学していたため、非常に不便でした。
(4)発寒小学校の開校まで
発寒は安政年間に幕府の武士、山岡精次郎という人によつて開墾が行なわれ、明治以前、二、三十戸の部落が出来ていたようであり、こども達には箱館奉行から送られた四書、五経を教えていました。明治以後は幕臣について入地した農家や炭焼、駄馬使い等が数戸しかなく、教育等は殆ど考えられなかつたようです。
明治九年に三十二戸の屯田兵が移住した後は、琴似村にできた小学校に通つていたが、発寒特別教授所がつくられてからは、新川の方にも一部が通学するようになりました。しかし大部分の生徒は琴似小学校へ通つていたので大変不便でした。
村の有力者三谷源太郎氏は、常々村に学校の必要な事を感じ、最初の案として稲荷街道の八軒の入口に学校を建てようとしたが、その土地の人々の反対にあり、次に新川近くの部有地寄り五丁下つた所を選んだが之もうまくいかなかつた。
丁度このとき竹沢幸一氏の母堂竹沢ナカさんの夫が亡くなり、ナカさんは夫の残された財産であつた三段三畝十九歩の土地を学校のために寄贈され、はじめて校地がきまりました。(現在の校舎のあるところです。)三谷さんは早速札幌の西創成小学校が改築された時残つた古材の払い下げを受けて大正十一年八月九日認可を受け、学校を建てました。九月二十一日には小西源吉先生が初代の校長先生としての来校も決り、十月一日発寒小学校が開校したのです。当時は小西先生一人で、教室も一つ単級小学校で生徒は六五にんでした。

2、発寒小学校の発展


歴代校長・職員・学級数・沿革大要。
(1)
(一覧表は別に示してある。)

2、発寒小学校の行事


大正十一年
 十月一日 開校式をあげ、初代校長は小西源吉先生でした。
昭和三年
 五月六日 御大典奉祝記念として校庭に桜の木十五本を植えました。
 十月四日 御真影をいただき、一時琴似の奉置所に安置し、十月十九日より青年団の奉仕作業で奉置所の基礎工事にかかり十一月十日後大典拝賀式を挙げ御真影を奉載しました。
 十月二十三日 三谷源太郎氏より発寒小学校の校旗を寄贈されました。図案は青年団によつて考えられ、地色は朱色にし校章は緑、それに月桂樹を記し(勝利栄冠を意味す)中に桜を入れて日本の表徴とし又屯田兵村の意をあらわし、発の文字をつけました。発は「ハチヤム」、即ち桜鳥の多く住む意味でした。
 十二月十二日 発寒の地にも電燈がつくようになりました。
昭和四年
 三月八日 同窓生より地球儀の寄贈がありました。
 五月二十一日 教育に関する御沙汰書をいただきました。
 五月二十三日 とど松四十本を植樹しました。
 (昭和十年までに全部かれてしまいました。)
昭和六年
 四月二十四日 天皇、皇后両陛下の御真影をいただきました。
昭和十年
 六月十九日 戸外用の井戸が出来ました。
昭和十一月
 四月九日 内井戸を堀直し堀抜ポンプとしましたが旧井戸の箇所四十尺以上となりましたが失敗し、北の戸外に新に十四尺を堀り完成しました。
昭和十三年
 四月二十日 校訓を定め、ことごとに唱え又、帽章や校旗の意味を認識させました。
  校訓 和衷(心の和を求める)
     競業(争いではなく学業を競うこと。)
     謙譲(自分は偉くなく他の善を認め之を称揚する)
     流汗(業を自分から求め困難にかつこと)
昭和十七年
 この年太平洋戦争勃発記念としてトド松を植樹しました。
昭和十九年
 熊中校長上手稲校へ転任に際し機械体操を寄贈されました。
 又この年校門が腐朽したため、新琴似校より破損した右門を運搬したが本年度は出来なかつた。
昭和二十三年
 七月九日 五、六年生がはじめて登別へ修学旅行をしました。
 この年始めて校歌が出来ました。作詩は当時の先生佐藤清氏、作曲は渡辺日出雄先生でした。

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 校    歌
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 作詩 佐 藤   清
 作曲 渡 辺 日出雄

一、みどりの地平発寒に ひらきし学びや
  伝えつつ 姿けだかく 年をつむ
  想え栄ある わが友よ
二、あした夕べの発寒に 希望に学び
  教えうく 歩むいばらに 限りなし
  みがきみがかん わが友よ
三、そのいそしみも発寒に 幾年月を
  むつみきぬ 雲井の空に いずるとも
  のぞみ輝け わが友よ

昭和二十四年
 九月十八日 五、六年生定山渓へ修学旅行をしました。
昭和二十五年
 三月十九日 同窓会発会式を行い、放送施設一式を学校へ寄贈されました。
 五月二十三日 運動会が行われました。
 七月二十五日 海水浴のため蘭島へ行きました。
 十月十一日 修学旅行を洞爺湖で行い又二十日には炊事遠足をするなど楽しい年でした。
 三月六日 学芸会も行われました。
昭和二十六日
 四月六日 琴似小学校より、南発寒地区の児童男女二年より六年まで二十七名転入したので運動場で入学式を行いました。
 五月十日 母と子を讃える会の学芸会を行いました。又二十七日に運動会も行われました。
 八月二十一日 六年生修学旅行を函館方面へ行い二十四日に帰校しました
 十一月九日 新築中の屋内運動場が出来ました
 十二月五日 開校三十年記念を計画し部落よりピアノが寄贈されこの日に到着しました。
 三月三日 運動場完成とピアノ披露の学芸会を行いました。
昭和二十七年
 五月十日 小姉会、児童会の学芸会が行われました。又運動会は毎年行われました。
 六月四日 新しいグランドが完成しました。
 七月二十八日 オタネ浜へ海水浴にいきました。
 八月十九日 旧校舎を取こわしはじめました。
 八月二十三日 昨年のように函館へ修学旅行にいきました。
 十月十日 開校三十年を記念し、又校舎の改築も完成しましたので盛大な記念行事を催し、旗行列、野球大会、提燈行列、映画会等を行い又十二日に学芸会も行われました。
 十月十四日 田中先生が急性肝臓炎によつて急逝され十六日浄恩寺で葬儀を行いました。
 二月一日 感冒の流行著しく臨時休校としましたが四日後再び八日まで休校し二年生は特にひどいため、更に二十五日より二十八日まで休校しました。
昭和二十八年
 四月二十七日 三十年記念の植樹をしました。
(落葉二◯◯本を役場より無償で受け今のグランド周辺に植樹しました)
 九月二十二日 廻旋塔とシーソーを取りつけました。
昭和二十九年
 五月十六日 グランドがまだ不充分なため走路に石炭殻をしき、又浸水するために排水溝を堀、父兄、生徒の奉仕によつて二十三日に完成しました。
 六月三十日 六年生函館方面へ修学旅行に出ました。
 十月十八日 三年以上社会見学のため小樽、余市方面へ旅行しました。
 十一月十日 児童が増加したので七学級に編成しましたが、教室がないため職員室を職員玄関に移し職員室を教室にしました。
昭和三十年
 二月二十二日 この日から琴似町は札幌市へ併合となり学校も札幌市立発寒小学校となりました。
 三月一日 札幌市の子供と合併町村の子供の交歓会を行い学校から五人の生徒が出席しました。
 四月十三日 増築の着工式を行いました。
 六月二十七日 新校舎ブロツク建四教室落成しました。
 六月三十日 六年生修学旅行に函館方面へ出ました。
 八月二十一日 玄関廊下を間仕切り放送室をこしらえました。
昭和三十一年
 本年度から十一学級となり教室の不足を来したため、校舎増築の意見が活発となりました。
 六月二十日 本年より函館方面の修学旅行を止め洞爺方面へ一泊だけの旅行としました。
 八月七日 七夕会を校舎で行い花火大会を行いました。
 九月二日 PTAの予算で低鉄棒を新設し、熊中校長の寄贈された鉄棒は危険となつたため取除きました。
 十月七日 従来一日だけの開校記念日に行つた学芸会を本年より日曜にすることにしました。
 十月九日 学校建築請願のため父兄等多数で市議会、教育長等関係法面へ陳情を行いました。
 一月二十六日 第三学期始業後感冒著るしく流行し、本日より臨時休校としましたが二十九日の調査により更に三十日より二月二日まで休校を続けました。
昭和三十二年
 四月一日 山内校長先生札苗校へ転任後任として札幌市東小学校より吉田茂一先生が着任しました。
 四月六日 入学式(一年)を行いました。本年度より児童数も五◯八人となりました。
 五月十七日 校舎増築の地鎮祭を行いました。
 五月二十四日 児童のため運動場へしくござを購入の議がおこりPTAで運動会用の衣服を販売しました。
 六月二日 運動会を行いました。
 六月十三日 六年生修学旅行へ出発しました。
 六月二十七日 感冒流行し二十八日より七月六日まで臨時休校しました。
 七月十六日 琴似地区の子供協議会を新校舎で行いました。
 七月三十一日 新築の二校舎完成し学校の引渡しがすみました。
 八月七日 恒例の七夕会を行いました。
 九月十一日 待望の電話開通しました。
 九月十六日 校地を整備しPTA、児童職員の協力により中庭を芝生とし前庭を平に整地花園に計画しました。
 十月二日 札幌全市の校長会を運動場で行いました。PTAの婦人多数手伝のため来校、児童は全校炊事遠足を行いました。
 十月六日 学芸会をしました。
 十月二十三日 再び感冒流行し本日より午前授業とするも三十一日に到り、二年、四年、の学級は遂に学級を閉鎖しました。
 十一月六日 札幌市内のテレビ業者(ビクターテレビ会社)より、放送教育研究会の協力により巡回テレビが到着、十九日まで全児童の学習に供しました。

3、校舎校地の移り変わり


(一)校舎の移り変わり
(1)創立当時(大正十一年)
大正十一年八月、西創成小学校改築の折、古材(五◯年使用のもの)を払下げを受けて校舎を建て、十月に完成しました。







(2)昭和三年
昭和三年十一月に校長住宅十八坪を新築し、もとの校長住宅を運動場にしました。
又新らしく裁縫室、事務室(イ)十三・五坪を新築し、電燈もつくようになりました。
(3)昭和七年
昭和七年四月に裁縫室を六坪(ロ)を増築しました。




(4)昭和十一年
この年の三月に今までの運動場を事務室、裁縫室に当て、昭和七年当時のイ、ロの事務室裁縫室を児童の遊び場としました。
(5)昭和十九年
この年は三学級編成のため四度目の模様替をし、今までの事務室、裁縫室を教室とし、旧の運動場を事務室、裁縫室にあてました。
(6)昭和二十一年
校舎増築の計画起り、敷地を得るために校長住宅を校舎の西側に移す。
(7)昭和二十二年
軍用材の払下げを受けて、父兄の請負作業で三教室と、使丁室、九三五坪を増築し旧教室を室内運動場とし、ようやく楽しい遊び場が与えられました。
(8)昭和二十四年
六学級となつたため運動場を昭和十九年当時にもどし三教室をこしらえたため遊び場がなくなつた。


(9)昭和二十五年
この年は五学級に減級しましたが、二十六年より再び六学級になるため、東側敷地に教室三、使所等計一四九坪を新築し十二月末に完成、一月末には新しい校舎に移転したのです。
(10)昭和二十六年
第二期工事として、屋内運動場を建築し十月三十一日廊下を含め、一一一坪が完成しました。(北辰建設請負、三八◯万円)
(11)昭和二十七年
第三期工事として児童玄関、給水場、使丁室、宿直室、計四◯坪を完成し翌二十八年には校舎のトタンぶきも完成し立派な校舎になりました。

(12)昭和三十年
本年より九学級となり、教室の不足を生じたので、新しく二階建モルタルを増築し四教室が完成(一四◯坪)し校舎の総坪数も五四一坪となつた
(13)昭和三十二年
昭和三十一年より十一学級となつたが教室が不足であつたため本年五月十七日二教室増築に着工七月三十一日新校舎につづけて完成しました。
現在教室十一、音楽室一、事務室、体育場等、立派な札幌市の学校となり、電話も開通し諸施設の充実をみるようになりました。



(二)校地の移り変り
(1)本校々地の概要
本校々地として正式に保有してあるものは、大字発寒九八五番地の一◯◯九坪(竹沢なか氏寄贈)の創立当初からある固有校地のみで、外に、神社跡地(九八四番地二六五二坪)黒田キヌ氏交換(九八三番地一五五◯坪)更に竹沢なか氏交換(九八六番地二五九八坪)以上三ヶ所の予定地を見込まれれば、総計七八◯九坪となるのでありますが、以上のうち、神社跡地は目下手続中の様でありますが、三角地帯すべて校地になるとは考えられない様でありますし、黒田キヌ氏との交換の分はそのすべてが見込まれるのでありますが、前者よりは更におくれ竹沢なか氏との交換による西側グランドの部分に至つては、中途において、手続の誤りと国との交換による代替地所有者間に完全な了解が成立せず、随つてこのグランドの部分は依然として竹沢氏所有のままとなつている。洵に憂慮すべき事態に立至つておるのであります。
(2)敷地決定迄の経過
別稿創立沿革にもある通り、現在地に決定される迄には複雑な曲折があつたのであります。
三谷源太郎氏等によつて、学校設置の議決をみたものの敷地として第一に選定されたものは、稲荷街道の新川寄り北八軒に抜ける途上は、これが成立不可能となつたので更に新川寄りの場所を選んだのでありますが、この第一、第二の候補地共に新川下小学校と合併する計画であつたので、村議の選出地盤の影響や感情問題等により遂に実現出来なくなつたのであります。
この様な困難な事態を地元民として且つ教育的熱意と理解のある竹沢なか氏の美挙により急転直下解決されたのでありますが、三十幾年経た今日再び隣接地の同氏所有地が、校地予定地とされてグランドに整地されながら、未だに正式に手続きもなされていない事態をみるにつけ、敷地決定には慎重且つ、将来を見透した客観的な配慮が講ぜられねばならないことであります。
特に近時附近住宅地化され逐次地価の高騰している現状から特にその感を深くするものであります。
(3)敷地拡張の経過
創立当初単級編成の規模の小さい学校であるといつても、わづか一◯◯◯坪余りの敷地のみではもとより充分であろう筈がなく、且つ将来発展を予想すれば、直ちに拡張に努力せねばならないものであり、それが安易に取得の配慮が今日迄に持越されて来た諸因としては種々ありましようが、何といつても、隣接地が神社境内であることで、公共のものと同意義に考えられたことが、境界も画さずに、校下部落民総出で勤労奉仕により校舎前面の地均しを学童のためとは云え他人の土地を利用してずるずると今日に及んだこと、更に黒田キヌ氏所有の東側前面校舎の敷地入手については所有者との了解工作のために、公選による地元村議が辞職までする大きな犠牲があつたに不拘、最も緊要な買収手続がこれも放任の状態になつてその跡始末の現在を迎えねばならない事態は、何んといつても遺憾なことであつたのです。
今以上の概要から更に札幌市との合併が達成される以前の旧琴似町時代において、町当局及び関係者の本校々地拡張についての考え方処置等可能な限りに於て詳記してみたいと思います。

(イ)昭和二十四年五月町議会決定事項
発寒小学校校下は戸口が急激に増加し従来の、三教室複式では間に合わなくなつたので増築の必要から敷地としてもわずか一◯◯◯坪余では余地がないので、次の様な議決を経ております。
尚文化施設が皆無であり併せて地元民からの要望も考慮して
 1、昭和二十五年度 三教室 八二、五坪
 2、昭和二十六年度 屋内体操場 一二◯坪
 3、昭和二十七年度 旧校舎建築改修
 4、本町発祥の地として旧跡を整備し唯一の文化財として保存する。
 5、現神社敷地にある先人移住記念碑を移設する。
 6、植樹をしてこの地区唯一の緑地帯として児童生徒の校外学習場所とする。

(ロ)拡張する土地の買収離作等の処置
(1)黒田キヌ所有地九八三番地(一五五◯坪)
この土地は寺田薫氏が賃借耕作しておりましたので、昭和二十二年十二月二日に、自作農特別措置法の規定により、農林省が黒田キヌより買収し、更に同法の規定により、寺田薫に売渡す予定でした処、寺田氏は発寒小学校敷地として使用する場合は離農することを条件として次のことを承諾しました。
即ち離農料として金参万円を支払うこと。及び昭和二十四年〜二十六年間学校建物に使用した残りの空地を無償で耕作させること。

二十五年三教室完成した残りの空地は現在の二線校舎敷地が昭三十年迄に使用されたのですがこのことは町教委の指示により、学校長と寺田氏との覚書交換により使用。

(2)竹沢なか氏所有地九八六番地(二五九八坪)
竹沢なか氏は、次の条件を附して校地として琴似町にこの土地を提供することを承諾しました。
即ち
 イ、この土地に相当する代替地を要求する。
 ロ、代替地取得に要する諸経費を必要とする時は琴似町がこれを負担する。
 ハ、代替地希望地
  a、札幌飛行場開放地域内
  b、西発寒国有地
右によりaの部分はその余地なくなり、bの西発寒の稲積おりう氏の土地六九二番地の一、原野一反九畝二六坪、六九二番地の二、一町四反七畝一◯歩、この土地は旧自作農創設特別措置法の規定により、全地を買収したわけでありますが、その中央部に砂利を採取した穴があり、この穴は農地でなく原野なので、後に分筆し穴の部分を、稲積氏に売もどしたのでありました。
琴似町はこの穴の分も、買収して竹沢氏に渡さなければならないことになつており、これも札幌市合併前に町役場担当者が、小樽市在住の稲積氏に再三に亘り交渉に当つておつたのでありますが同氏の承諾をうるに至らず及んでおる次第であります。
今一つの西発寒代替地として大関氏所有地九三六番地の三、(一二七六坪)は現在竹沢なか氏名儀に登記済になつております。
・竹沢なか氏所有地に対する札幌市、道、国との関係について
最初竹沢氏希望代替地である稲積氏所有の六九二番地の二、(砂利採取跡地の原野、一反九畝二六歩は問題となり除く)は琴似町農業委員会の斡旋により同意しましたので法により所有権の交換をして、昭和二十七年十月二十日に西側グランドの部分即ち九八六番地は国有地となり一時琴似町が校地として国から借用の形がとられたのでありました処、昭和三十一年十月になつてこの所有権の交渉は誤りであるという見解から所有権がまたもとのまゝとなり、現在竹沢氏所有地となつておるのであります。
随つて琴似町時代よりの引継事項として現在市が当面している西グランド竹沢氏所有地を校地にするためには、稲積氏の六九二番地の二の土地を竹沢なか氏が国に対し払下申請をなさしめてその代金を市が負担することにより、竹沢氏所有の西側グランドに当る土地を同氏より貰うことになるわけであります。
尚この場合竹沢氏の農地として国から払下げをうける西発寒の土地代金はグランドの部分を国から買収して校地とする場合の価格についてより遥かに安いと思われ、時日延引する毎に市が多額の経費を必要とするわけですから、早く処理することがのぞまれるわけであります。

(ハ)神社移転に伴う代替地 八一◯番地
八一二、八一五、八一四の各番地
(武田製薬所有地)計 二七三五坪
この土地はもと武田製薬会社の所有地で小作人として沼田善太郎氏等三名おつたのでありましたが国で買収し更に小作人には神社敷地とすることで、代替地を与えて離農されたのであります。なお全地域神社名義で貸付申請致しました処、五反歩以内に限定されていたので、昭和二十七年五月に神社が八一◯番地の二、及び八一二番地の二を琴似町が、残りの八一四、八一五番地を借うけ、この両者の賃貸料を市が負担して現在に至つておるわけです。
現在市当局として直面して処理を要する問題点として別途の覚書の通り神社と琴似町とに於て結んだ取りきめにするとすれば、神社移転地五反歩余の外に隣接地を児童の小公園として国より買収し、之を神社側に与えねば、旧神社跡全域は校地とならないこと。
宅地化されて、附近高騰している現在国としても時価相当額を要求することは明らかであり、之に引かえ跡地は、地形その他から三角地帯など、空閑地が見込まれ校地として交換の価値あるかどうか、実際学校敷地として現在利用している部分のみの代替地を与え、爾後に必要都度買収する方法はどうか、等、の問題点あると思われますが、最小限でも、神社敷地五反歩余は、実際跡地を校地として使用もしているので、これだけは早急に手続されることが望まれる次第であります。
次に参考のために琴似町時代において神社側と取きめした覚書を提出致しますと。