六、町の概要

1、琴似の町


琴似の町は、北海道の首都札幌市の一部として大切な役割をたくさん持つています。
昭和三十年に札幌市に合併されましたが、明治時代から札幌と琴似とは、切ることのできないつながりのあることは、札幌市の「おいたち」を見てもわかります。
(1)野菜や果物の町
みなさんは、朝市を知つているでしよう。この朝市で取引きされている、たくさんの野菜や果物の多くが、琴似や手稲の農家で生産された農産物です。発寒の学校のまわりにも、朝市に出すために作られている、野菜や果物がたくさんあります琴似の人たちは、札幌の街の人達が消費する、これらの野菜類を作る、大切な役目をもつているわけです。
(2)住宅地としての町
昭和二十七年には、戸数約四百戸、学校の生徒の数は二百七十人であつた発寒の学校も、昭和三十二年には、戸数約六百五十戸、生徒の数は五百二十人余りに増加しています。これをみただけでも、発寒にどれほどどんどんと家が建つているかがわかります。
札幌市は、昭和二十年頃の人口が、約二十五万人でしたが、昭和三十二年には、世帯数約十万、人口約四十五万人となり、全国都市の九位となつています。
こうして、琴似や発寒にもどんどんと家が建ち今では、発寒にも市営バスが通るようになりました。
(3)工業地帯としての町
昭和十三年頃から、琴似の町を中心として工場が次第に建ちはじめ、今では大小四十数社が建てられて、農業の町から工場の町へと変つてきています。なかでも、酒精、紙、木工、薬品、菓子その他軽工業などの工場が多く、近い将来は桑園地区とともに、軽工業地帯として大きく発展していくことでしょう。
これは、工場の土地が容易に得られ、働く人が多く、交通も便利などの理由から、琴似方面に工場が多くできるのです。

2、人  口


明治以前の発寒アイヌ時代には、発寒川にのぼる鮭をとつて生活していたアイヌが、十三戸、五十六人住んでいたといわれています。しかしこれらのアイヌも、この地方が石狩十三場所となつて和人が入るようになつてからは、しだいに減つてしまつたようです。
また安政四年には、発寒(今の発寒神社を中心とした稲荷街道一帯)を開拓するために、山岡精次郎等二十人が入りましたが、本州に引揚げたりほかに移住したりしています。
明治三年から四年にかけて、本願寺移民が琴似の二十四軒、十二軒、八軒に入地したといわれていますが、これとは別の説もあります。
明治八年には、黒田清隆という人の計画で、北海道を開拓するために、宮城、青森、山形県の人々二百八戸、九百六十五人が琴似(今の一番通りから十番通りまでの間)に入り、翌九年には、青森、秋田、山形、宮城県の人々二百七十五戸、千百七十四人のうち三十二戸が発寒に入地しました。

琴似町の年代別人口
  年代   戸数又は世帯   人 口      備 考
 明治三年      六戸     一九人
   十七    三五四    一七一二
   三三    五七四    四二六一
   三九    八五九    六◯四四   二級町村制施行
 大正 九   一◯七四    六◯四四
   一二   一◯三七    六四六二   一級町村制施行
 昭和 五   一四四七    八四三九
   一七   二一三四   一一七三九   町制施行
   二四   三五九八   一九二五三
   三◯   六◯七七   三◯◯七七

このようにして、人口はしだいに増加してきましたが、なんといつても、昭和十年頃から第二次世界大戦中に工業地として発展したのが、いちばん大きな増加の原因となつています。

3、職業と生活


(1)発寒アイヌ時代
和人がアイヌを使つて、手稲山附近から木を伐り、発寒川の岸に運び出して、雪どけ水を利用して流送しました。この木材は、椴松や、その他雑木で、家材や船材に用いられたようです。
また発寒川にさかのぼる秋味鮭をとり、これを品物と交換したり、またお金でもらつたりしました。
(2)明治初年から二十年代
明治の初年、琴似に本願寺移民といわれる人々が入りました。この人々は一日いくらときめられた米や、給料をもらつて、農業に従事していたこともあつたようでした。
その後明治八年になつて、屯田兵が入植しましたが、屯田兵は、きまつた広さの土地をもらい、また軍事訓練を受けて生活しました。屯田兵は、おもに昔の武士が多かつたが、規律を守つてよく働いたので、よい成績をあげました。
(3)屯田兵の仕事
屯田兵についてくわしくいいますと、初め琴似屯田が入植した頃は、宅地百五十坪(発寒は二百坪)と、宅地からはなれたところに共同耕作をしていましたが、自分の土地でないので張合いがなく、後で土地を割渡すことになり、初め養蚕に力を入れる計画で五百坪の桑園をつくり、その後で五千坪が支給されました。それでもまだ余力のある人には、更に五千坪があたえられました。実さいには、自分の土地としてもらつた広さは、普通の人で四千三百坪となります。
 (註)明治二十三年になつて屯田兵は一万五千坪が必要であることがわかつて、それだけの広さの土地がもらえるようになりました。
この頃の屯田兵や住民のたべ物ですが、主食はよいところが米で、米と麦半々が普通で、悪いところでは、麦、あわ、そば、とうもろこし、じやがいもなどが主食とされていました。
屯田兵以外の住民では、農耕の外に伐採や木炭製造の仕事をしたり、暮らしに困つた人々は、仕事の合間には、漁場に出稼ぎに出る人もありました。
また札幌地方、特に琴似は養蚕が盛んで、広くたくさんの人が桑を植え、蚕を飼い糸をとりましたが、気候があわなくて桑畑がうまくいかず、しだいにおとろえてしまいました。
(3)明治三十年代
この頃になると人々の職業もいろいろな方面に広がりました。従来までの仕事の外に、官公庁の奉職者や、商業などをする人も増えてきました。商業では、主として雑貨、衣料などで、札幌から仕入れるよりも、小樽まで仕入れにいく方が安いので、遠くまで出かけていつたそうです。しかし消費物貨は札幌にたよつていました。
(4)大正時代
この時代になると、第一次世界大戦の影響もあつて景気がよくなり、村も発展して仕事もいろいろと増えました。商業は雑貨、衣料、食料などの外に製造販売の仕事もあり、またそれにつれて工場も建てられて労働者、工員などの職業の人々も住み、官公庁の役人も非常に多くなり、女の人で官公庁に勤める人も増えてきました。
とにかく第一次世界大戦のはじまつた当初は、農家は豆成金、工場も景気がよくなりましたが、戦後は品物が余つたりしました。
生活の様式も、電燈、ストーブがつき、ガラスが使われ、わら靴がゴム靴になり、生活水準は急に向上しました。農家の好景気に対して、一般の生活者は、物の値段が上がつて生活は苦しくなりました。
(5)昭和時代の初期
大正時代の末期に琴似に移転した、北海道農業試験場と、新しく建てられた北海道工業試験場は、琴似の発展に大きな影響をあたえています。
それは農業技術の進歩となり、農村が工業化されるきざしが現れて、工場が新しく建てられるようになりました。
この頃の農家は、かつて第一次世界大戦にあつたような好景気とは全く反対に、農産物の値段はさがりだし、昭和五年には米の豊作で、物価が急にさがつてしまいました。その後運わるく、昭和六年、七年、九年、十年と冷害、水害などで凶作や不作が続いて、農家の生活は非常に困つた時でした。
この時代の農家は、苦難の時代でありましたが、また一面、科学的合理化の方向に一歩近ずいた時でありました。
またこの時代にラジオがついたのは、生活に大きな進歩をもたらしました。札幌放送局が昭和三年にできて、ラジオを聴取する人が増え、また新聞をとる人なども多くなつたのは、俸給生活者が多く住むようになつたためもあるでしよう。
そのほか、パラダイスヒユツテや、大倉山シヤンツエなどができてスポーツもさかんになりました。
(6)昭和十年代
昭和六年に満州事変、昭和十二年には支那事変に発展し、昭和十六年には太平洋戦争となりましたが、この戦争中の国民の生活は苦難の連続でありました。
戦争がしだいに大きくなるにつれて、応召者が増えて人手が足りなくなる一方、戦争遂行のために軍需物資の生産は増え、国民の生活物資は切りつめられるようになりました。生活必需品の食料衣料などは統制となり、貯蓄が叫ばれました。
また、部落会や隣組の活動がはじまり小学校は国民学校となり、職場などには報告団というものができたりしました。
このような状態から、企業整備というものがあつて、商店やそのほかの仕事についている人達が転廃業したりすることになりました。
昭和十八年頃から戦局が不利になり、学校の生徒などは勤労奉仕に出るようになりました。また婦人会や挺身隊などが、いろいろな仕事に動員されるようになりました。
昭和二十年になつてからは、いよいよ戦局が不利となつて、民家に兵隊がとまるようなこともあり、防空、防火訓練もさかんになり、札幌市の混みあつた建物はとりこわされ、人々も地方に疎開したりしました。
しかし、この長い間の苦労をよそに、昭和二十年八月十五日に戦争は終りました。
(7)終戦後
敗戦によつて、国家も国民も虚脱状態となりましたが、この敗戦の年が凶作であつたために、国民の生活は今までになかつたみじめなものとなりました。インフレーシヨンから新円の切換、預金の封鎖など、国民の生活は困難を極めました。
昭和二十四年頃になつて、しだいに経済が安定して、統制がはずされ、平和な生活に回復してきました。
終戦後、札幌市は急激に人口が増え、これに伴つて琴似にも札幌市に職場を持つ人が多くなり、従つて商店も増え、一方工場がつぎつぎと建ち、にわかに発展向上してきました。

4、工業と商業

(一)工業
(1)明治時代
明治の初期に、屯田兵が開拓に入植した時には養蚕をすすめました。そのために紡績、製鋼(麻の栽培)がさかんでしたが、両方とも季候があわないために、生産の収量が少なく、また値段も安いために採算がとれなくなり、これらの仕事はしだいに低調になりました。その他、酒造り、味そ正油の製造、マツチの軸木作りなどもありました。明治二十三年に、製麻会社が建てられましたが、三十三年に全焼し、四十一年に、帝国製麻会社の琴似亜麻工場となりました。
(2)大正時代第一次世界大戦の影響で、工業は躍進的に発展しましたが、終戦になつてから、その設備と資本の処理に困りました。
この時代の主な工業をみると
・大正九年 八軒に日本製麻工場
本町に土屋鉄工場と小熊木工場
大正十二年 工業試験場が新設されて、醸造陶磁器などの試験をしました。
その後、化学工業、発酵工業、窯業などの仕事もしました。
(3)昭和時代
大正時代に引続いて、工業地としての性格を現して、日支事変が起つてからは、十余の工場が急増しました。これは、札樽間の交通の便利なこと、工場敷地が容易に得られることが原因とされています。
・昭和四年 八軒に日本食品製造会社ができて缶詰、びん詰、オートミル、コンフレークスなどをつくりました。
・和年八年 本町に除虫菊工場ができて、農薬がつくられましたが、全焼してからは倉庫になつています。
焼酎会社は現在の札幌酒精となり「君万才』「小町娘」で有名。
・昭和十年 理化学工業会社、現在は石けん工場となつています。
・昭和十一年 鳥居製薬(旧三星薬品)では家畜の薬を製造、その後自動車の整備工場となつています。
・昭和十二年 北海製紙(小樽大正七年創業)現在は札幌製紙となつて、パルプを原料にクラフト紙を主につくつています。
・昭和十三年 清水工業会社、木工場として昭和三十年まで操業、その後日立製作所で工場新設をしています。
 曽田香料は、植物を原料にして製薬をしていました。
・昭和十四年 日本セメント(旧浅野セメント)スレートを製造しています。
・昭和十七年 北海木工製作所
・昭和十八年 北海道陶器会社、現在は東京芝浦会社が電機を製作しています。
・昭和十九年 日本新薬会社、ミブヨモギからサントニンを作つています。
 武田薬品はビタミン剤を主原料として、栄養剤を製造、現在は閉鎖しています。
・その他、終戦後には、木工場、製菓工場、土建関係、自動車などの工業が急増しています。また、寒地建築研究所などができて、新しい建築材料の研究も進められています。
このようにして琴似町だけで、主な工業が四十五、六あり、従業員も二千名近くの人が働いているわけです。

(二)商業
琴似の商業は、昔から余り盛んでなく、また現在でもそうです。それは、札幌を隣りに控えているためで、物品は札幌からから買われてしまうからです。なんといつても札幌は大都市であり、交通が便利で、品物が豊富で安いから、琴似の商店を利用するのは、急ぐ時、現金のないときなどになり勝ちです。それで商店としては、掛売りが多くなり、貸し倒れや、そのための金の利子などを加えて物の値段を高くするなど、特に、明治の初め頃から大正時代はこのような理由で、商業が盛んにならなかつたといわれています。しかし最近になつて人口が増え、需要が増えてきましたから、これからは商店も次第に伸長する傾向をたどることでしよう。
(1)明治時代
琴似に初めての商店ができたのは、屯田兵が入つた翌年(明治九年)、本町の五番通りに、小泉衛守という人が、米、味そ、醤油、酒その他食料品、雑貨などを置いて、商売をしました。
発寒では、明治十一年に四戸喜太郎という人が同じような店を開き、明治二十二年頃まで続いたといわれています。また明治二十年頃から三十五年頃まで、横尾直四郎という人と、その後を北川国松という人が四十五年頃まで、その後を下山駒吉という人が開いていたといわれています。
明治時代から、現在まで続いている商店では、二十五年に開いた駅前の大熊商店があります。明治三十五年の調べでは、琴似で商業をしていたもの三戸、兼業十三戸といわれています。
(2)大正時代
この頃になると、札幌の商人が売込みをするようになり、五番館では自動車で配達するようになつたので、琴似の商店は苦しくなりました。この頃の商店で、今も続いているのは、十軒余りあるそうです。
大正時代の終り頃になつて、食料雑貨店の形から、専門店の形に変わつてきて、自転車、畳、食料品、建具、米などの専門店ができています。
(3)昭和時代
専門店は昭和十年頃までに、本町の商店街をつくる結果となりました。支那事変がはじまつてからは、商業組合がつくられ、物が統制、配給時代となつて、その頃の三十パーセントぐらいが、商店をやめたり、ほかの職業に変わつたりしました。第二次世界大戦が終つて統制がなくなり、品物も多くなつて、昭和二十四年には、小売店が百七十六戸にもなり、発寒では三十二年に二十数軒の小売店ができました。