5、公共施設


(1)市役所
明治二年、北海道を開拓するために、開拓使が設けられ、明治四年には僅か六百人余りだつたそうですが、大正十二年には市となり、昭和三十二年には四十四万余りの人口となつた札幌市の、いろいろな仕事をしている市役所は、北一条西四丁目に、五階建ての大きな建物となつています。
組織は、市長の下に収入役、第一、第二、助役をはじめ、たくさんの部、課、係などがあり、ほかに市民の生活を考えて、支所や出張所が設けられています。また私たちの健康を守るために、病院、保健所、助産所、診療所などがあります。文化施設の面では、市民会館、図書館、児童会館などの施設をもつています。そのほか、社会施設、体育施設、消防署などを管理しています。
琴似地区は、昭和三十年に札幌市に合併になるまでは、琴似町役場で仕事をしていましたが、現在は支所となつています。
(1)教育施設
札幌市にある幼稚園は二十三園、小中高大学などが、百六十九校(昭和三十二年現在)あり、そこに通つて勉強している人数も、十万人以上になつています。それでもまだ学校の数や教室が足りないのです。
文化施設としての市民会館は、市民のためのいろいろの催しや集りをしたりしますが、そのなかには成人学校などもあります。
琴似では、高校一、中学三、小学校七、幼稚園、保育所など数カ所あり、このほか整肢学院と山の手学園など特殊の施設も置かれています。
発寒小学校は数年の間に、三倍の児童数に増加し、また、昭和三十年四月には、中央発寒の阿部喜一氏が施設を提供し、小林幹夫氏が経営する発寒幼稚園が開園されました。現在幼児約六十名を収容し、職員五名が保育に当つています。また翌年六月には、南発寒の黒沢郷子氏が経営する季節保育所が開所され、農繁期利用度が高く、地域の人々に大きな便宜をあたえています。
(3)社会福祉施設
市民の生海をまもるために、民生委員という人がいて、生活に困つている人のために、相談をしてくれます。またつぎのような施設があつて、そのなかにもそれぞれ仕事の内容によつてわかれています。
児童福祉施設としては、養護を目的とするもののほか、精神薄弱児を収容するところ、非行性の青少年を収容する救護院外乳児院、助産所、母子寮、保育所などもあります。最近できたものでは琴似の整肢学院で、これは肢体不自由児を収容しております。またおとなの施設としては、養老院、身体障害者補導所などがあり、全道からたくさんの人が集まつています。
また、世の中には働きたくても仕事がなくて、困つている人が少なくありません。このような人のために、職業補導所や職業紹介所を設けてあります。しかし職を求めてきている人の割合に、働く仕事が少いので、きまつた職につけない気のどくな人もたくさんいるわけです。
琴似にも、昭和二十五年に職業紹介所ができ、二十六年には母子寮ができて、約二十世帯六十人程の人が利用しています。そのほか、海外からの引揚者を収容するために、昭和二十二年に南発寒に住宅がたちましたが、それ以来毎年のように住宅が建てられて、三百人もの人が住んでいます。
また、働く人の安全を守り、安心して仕事ができるようにと、労働基準局や、労働かんとく局という役所もあります。
(4)公衆衛生施設
病院が大小あわせて四百五十もあり、七千人の人が入院できます。この中には保健所があつて、市民の健康をいつも見守つていてくれます。
琴似や発寒地区にも、たくさんの病院が増えましたが、中でも山の手の国立療養所や、精神、神系科の太田病院、綜合病院としての第一病院などの大きな病院があります。
病院のほかに、街を美しくするための仕事をしている役所もあります。し尿を汲取つたりする自動車が五十台もあつて、市民の便利をはかつています。
(5)交通通信
明治十三年に、幌内炭坑の開発をするために、手宮、札幌間に鉄道が敷かれてから、現在までに発展の一途をたどつてきましたが、今は市内に駅が十三もあり、一日平均五万の人が乗り降りし、千五百トンの貨物が処理されています。琴似駅も一日平均八千人が乗り降りしています。
バスも国鉄、中央、市営、定鉄バスがあり、市営だけでも百十五台で一日平均五万人、電車は約百台で十八万人をはこんでいます。
発寒にも昭和三十二年から、市営バスが開通したいへん便利になりました。
郵便局は市内に五十三局あり、ポストが百八十個、一日平均手紙が二十三万通、小包が五千五百個も扱われています。
札幌に郵便局がはじめてできたのは、明治五年でしたが、今では電話局、電報局ができて、郵便局と共に通信事業には大切なものとなつています。電話は一日平均十七万回使われ、電報は七千通も取扱われています。琴似では郵便局が二つあり、琴似郵便局では集配をしています。
(6)公益事業
公益事業の主なものといいますと、水道、瓦斯、電気などがありますが、どれも市民の文化生活とは切りはなすことができない大切なものばかりです。
上水道は、昭和九年に豊平川の上流「みすまい」にダムをつくり、そこから長いトンネルで「もいわ山」のところまで引き、そこで二つにわけて一つは発電所、一つは浄水場にはこんできてつくつたものです。この仕事は昭和十二年に完成しました。市民一人が一日に約ドラム缶に一つの水を使うそうですが、現在では給水範囲を広くするために、浄水場を広くしました。
琴似にはまだ水道はできませんが、しだいに住宅が増加してきましたから、将来は水道もつけられるようになるでしよう。
ガス会社では、石炭をむし焼きにして、ガス、コークス、コールタールを作つています。ガスは現在一万戸の人が利用していますが、十万世帯の約十パーセントにすぎません。
わたし達の使つている電気は、豊平川ぞいの五つの発電所から送電されているものが多く、それでもまだ、充分に間に合う程ではありません。
琴似では、大正四年に電燈がつきましたが、それまで使つていた、石油ランプより電気代が高くつくために、電気のつくのがおくれていたといわれています。
(7)消防と警察
火事になると原因の三分の一が、煙突からだといわれていますが、札幌市の火事は、金額にして一日に一軒平均で損害を出しています。こうしたおそろしい火事をなくするため、また少しでも早く消しとめるために、ポンプ車が二十四台あり、高い塔の上から、夜も昼も見張つていてくれます。しかし、完全に火事から街を守るためには、もう二十台も必要とのことです。
札幌での消防の初めは明治五年でしたが、琴似ではずっとおくれて、大正の中頃にやつと消防活動がなされました。琴似は工場が多いので、特に消防の設備が大切ですが、水の便をよくすることも、忘れてはならないことです。
琴似に警察が置かれたのは、明治十九年で現在まで人々の安全を守つてくれていましたが、昭和二十三年には新しい制度の自治体警察もできました。警察の人たちの仕事もだんだん増えて、現在では少年の補導所ともなつています。

6、町の発展


(1)災害
昔と今との災害で、ずいぶんちがつているところもありますが、こゝでは明治時代の初期から、現在までの災害をかいつまんでのべることにします。
先ず、災害の種類ですが、洪水、大雨、山火事、虫、鳥、獣、放牧馬、病害、火災、冷害など、数多くのものがあります。
明治初年頃に入植した農家が、最初に苦しめられたのは鹿で、今の円山、苗穂、丘珠附近は、特にひどかつたようです。一晩のうちに、たくさんの群れをつくつて畑を荒らすため、畑に木のさくをまわしたり、空砲をうつて追払つたということです。
また、恐ろしいものに野火があります。昔は、開こんするために木を切りますが、切つた木がじやまなので、火をつけて焼きはらつてしまうのです。これがあたりの立木に燃えうつつて、家まで焼くことがあり、火の仕末はきびしかつたようです。
また「からす」や「バツタ」もひどい害を農作物にあたえました。明治十年には一羽からすをとると、四銭の賞金がもらえたりしましたが、その後、バツタが増えたときは、からすがこのバツタをたべてくれるので、役立つたということもあります。バツタは今でも中国やアメリカでは、大きな災害をおよぼしています。
そのつぎに狼と熊があります。これも賞金つきでとられたようで、狼が七円、熊が五円だつたが、熊より狼が安いのは、熊はとると毛皮などが、お金になつたからです。
また、大雨のために洪水になり、畑に水がつき、橋を流し、作物がくされてしまうようなことも少なくありませんでした。篠路村が、早くから開拓されながら、発展がおくれたのは、湿地帯であり、洪水が多くて、不作になることが多かつたためです。
そのほか、今でもある、気温が低くて作物が育たなかつたり、早く霜がきたりする冷害や、雨が長い間降らずに、畑がかわいて作物が枯れるかんばつなどがありました。
最近では、このような昔の災害のうち、獣などや、からす、バツタ、野火、山火事などの災害はほとんどなくなり、また農業の方法が進歩してきて冷害も、少なくなつてきています。しかし、昔あまりなかつた、作物の病虫害が増えていますので、いろいろな農薬をつかつて、これを防いでいます。
わたしたちの祖先は、こうしていろいろな自然の災害とたたかいながら、今のようなりつぱな、田畑や道路、川の堤防などを作つてくれたのです。今のことに駅から、琴似小学校にいく間でも、昔はひどいふぶきのときには、道に迷つてしまうほどだつたといいます。わたしたちが、今歩いている道路も、昔の人のたくさんの苦労の汗がにじんでこんなにりつぱになつたのです。
(2)町の発展
第二次世界大戦後、札幌は人口が急に増加してそのために、琴似も札幌市の郊外として、札幌市に職場をもつ住民が増え、交通が便利で、土地が安く広いために、工場も建ち、昭和三十年には、人口三万となり、札幌市に合併しました。
発寒も、近年になつて、こうした影響をうけるようになり、ここ五・六年の間に、人口が二倍近くになり、農村地帯の一部は、工場、住宅地帯に変つてきました。
札幌市の都市計画では、将来の札幌は、人口百三十万まで収容できる大札幌をつくる構想もあるといわれ、小樽、石狩、札幌、江別地区一帯が、やがて、ひとかたまりとなつて、石狩平野の大切な、経済、文化、政治の中心地となることも夢ではないでしょう。
(3)発寒神社
発寒神社は、安政四年幕府在住の一人であつた山岡精次郎が、発寒に移住するときに、郷里の京都伏見稲荷神社の御分霊を移し、現在の移住記念碑のところに社殿を建てて、稲荷神社としました。神社の由緒はくわしくはわかつていませんが、郷里をはなれて入地した人々の心の寄りどころとしたといわれています。
明治九年、屯田兵が入地した後も、毎年旧暦の六月十五日を祭日とし、明治二十年からは、野村三平氏が神社の仕事に当ついました。
明治二十六年には、現在の学校地内に移築し、明治三十一年には、豊受大神宮から御分霊をいただき、中村龍太郎氏が本務社掌となり、翌年には拝殿と幣殿とを増新築しました。明治三十五年には、発寒神社と改称し、明治四十年には祭日を新暦の八月十五日にし、四十五年には現在の九月十五日に改められました。
大正十二年には社務所を増築し、中村社掌がやめて、琴似神社の菅原社掌が兼務しました。また昭和六年社殿を造営して、遷座祭を行つて、二十一年には初代官司として有田久一氏を迎えました。昭和三十一年には、現在の山岡精次郎移住記念碑のところに遷座しました。
御祭神は、豊受大神と稲倉御魂大神の二柱です。
(4)戸数
発寒地域は札幌市の郊外として、数年来住宅街として変りつつあるが、それにつれて土地の分譲が行われ戸数の増加はおどろく程です。
特に琴似町が札幌市に合併された昭和三十年以来、戸数の増加は、表(割愛)に示すように急激になつてきました。
戸数の増加のようすをみてもわかるように、昭和三十年以来戸数の増加は甚だしい。
しかし戸数を示した表(割愛)をみてもわかるように一昨年から昨年にかけて、特に多くなつてきていることは発寒地域の土地の分譲が盛に行われたことを物語るもので、今後、宅地としての余剰地は大体推定して六百戸分位はあるだろうといわれています。
また、各年度の戸数は住民登録をしてある戸数で、実際はこの数をずつと上回るのではないか、ということが考えられる訳です。
それにしても三◯四年の間の発寒の戸数は倍近くも増加していることになります。
戸数の増加に伴い、人口の増加は当然でそれと共に児童数の急激な増加に学校増築の問題が、毎年おきている現状です。
昭和二十八年度は学校の途中入学数が七、八名であつたのに、昭和二十九年以降は毎年三十名から四十名になつていることでわかることと思います。
(5)商店・そのほか
戸数の増加は、必然的に商店の増加を伴なう訳で、二十八年頃は、一、二軒の商店しかなかつたのに、現在は相当増加しています。

・商店(衣料品、魚店、雑貨店など)二十数軒
・旅館 一軒  ・理髪店二軒
・銭湯(発寒湯)一軒  ・自転車店 一軒
このほか、大きな工場として「札幌酒精」と、「北海製紙」があり、小規模ではあるが「鍛冶屋」が一軒、バケツなどを製作している工場が一軒、ある。また「山田製菓」が昭和三十二年に製造を始めました。
また水谷医院が住民の健康保全につくし、発寒神社(別に詳述)や仏立宗信広寺別院が地域内に存している。
また、市民たちに、したしまれている発寒川の上流は、炊事遠足の場所として好適である。